浅草寺・ 六地蔵石灯籠【東京都指定旧跡】
- 造立年:不明
- 高さ:約2.3m
- 材質:小松石
- 都指定旧跡(仮指定):大正13年2月5日
- 旧跡指定:昭和30年3月28日
- 奉納者:鎌田兵衛尉政清(推定)
読み方
六地蔵石灯籠(ろくじぞういしどうろう)
名前の由来
天保年間(1830年から1844年)に編纂された「江戸名所図会」の中の「金龍山浅草寺」の巻に『六地蔵の石燈籠』の項があり、そこにはこのように記されてい‥申す。
『雷神門の外、花川戸町の入口角(かど)にあり。故に土人此所の河岸をさして六地蔵河岸といへり』
この文の内容を現代語訳すれば、往時の隅田川べりは「六地蔵河岸」とも呼ばれていたと記されてい‥‥申す。
この石灯籠は現在では、ヒッソリそりそり髭ぞり深ゾっちまぅゼぃ!‥‥‥てなほど、ヒッソリと影を潜めるように賑々しい浅草寺境内に佇んでいますが、江戸時代はそうではなく、逆に江戸中に名前が知られていた有名な鳥居、てはなく灯籠!!であった背景が浮かんでくるというものでゴザる。
六地蔵石灯籠の歴史・由来
この燈籠の造立年代は不詳とされていますが、「江戸名所図会」によれば、以前は雷神門(雷門)のすぐ外に見えた吾妻橋のたもと、浅草の花川戸町(あさくさはなかわどちょう)の入口の角に建っていたされていることから、少なくとも江戸時代後期にはすでに存在したものと推定できます。
浅草寺の寺伝によれば1146年(久安二年)、1170年(久安六年)、1368年(応安元年)のいずれかの年代に造立された燈籠とみられているようです。
このようにこの燈籠の奉納年が特定されないのは、灯籠の姿を見れば理解が進むように風化が著しく、判読不可能とされているからでありまする。
この灯籠は風化が激しいことが相まって面妖な一面を持つ、化け灯籠などと、江戸時代を通して多くの古書物にも登場するような有名な灯籠でした。
この理由はやはり、この灯籠が江戸時代を通して、刻銘などが判読不可能であったことに他ならないものでゴンす。
おそらく江戸時代を通して、幾度も判読が試みられたことでしょうなっ。
鎌田兵衛尉政清が奉納した燈籠?
他説では、久安年間(1145年~ 51年)に源義朝が浅草寺に参詣に訪れた際に「鎌田兵衛尉政清」が造立したものとも考えられたようです。
鎌田政清は母が義朝の乳母だった経緯から頼朝卿からすれば、位置的には異母兄弟の兄という立場であり、頼朝卿の父・義朝の右腕且つ、第一の郎党でもあったことから、その状況を加味すれば当人物が奉納したとも考えられなくもありんせん。
都内最古の石灯籠
この石灯籠は浅草寺の寺伝に挙げられている年代からして、都内最古の石灯籠に位置付けられているものです。
それゆえ東京都指定旧跡の登録を受けてい‥‥申す。
現在地に移されたのは明治時代!
雷門周辺も明治時代になると騒がしくなり、明治23年(1890)、道路拡幅などの区画整理が実施され、この折、現在地に移転されていまする。
現在は写真のように覆屋(おおいや)が灯籠を覆い隠すように設置され、雨風から守られ、安らかな日々を過ごしてい‥‥申す。
六地蔵石灯籠の造りや特徴
この六地蔵石灯籠は名前の通り、「6つの石地蔵のレリーフ(浮かし彫り)」が施されてい‥‥申す。
詳しくは六角形の各、面に地蔵像が彫られてい‥‥申す。
⬆️昔、野球部にこんな奴おった。給食食べんるんめちゃ早かったなぁ
⬆️地蔵のレリーフの下の「中台」部分にも線刻のようなが見える。コンクリートか何かで簡易修繕されている痕跡も見える。
六地蔵石灯籠の場所(地図)
影向堂の前あたり、付近に一言不動と三峯神社があり申す。