浅草寺「鎮護堂(おタヌキさま)」
創建年
- 1883年(明治16年)※寺伝
再建年
- 1913年(大正2年)
建築様式(造り)
- 入母屋造(本殿)
- 切妻造(拝殿)
屋根の造り
- 本瓦葺
ご本尊
- 荼吉尼天女騎坐像
- おタヌキさま(鎮護大使者)
- 公孫樹の木(御神木)
ご利益
- 火難除け
- 盗難回避
- リストラ回避
- 出世成就
- 商売繁盛
- 来運招福
法要(行事)
- 大祭日:3月17日・18日
- 大祭日:11月4日
- ご縁日:毎月1日と15日
浅草寺・鎮護堂の読み方
「鎮護堂」の読み方は「ちんごどう」と読みます。ご本尊として「荼吉尼天女騎坐像(だきにてんにょ きざぞう)」をおまつりしています。
鎮護堂の歴史・由来と創建理由
1872年(明治5年)、浅草寺境内に住みついたタヌキの乱行を鎮めるため、浅草寺の用人であった大橋亘(わたる)が浅草寺貫首・唯我韶舜(ゆいがしょうしゅん)と相談の上、1883年(明治16年/明治時代)に自身の邸内に祀ったことがこの鎮護堂の起源とされています。
後、数度の移転を経て、同16年伝法院内の当地に再建されています。
なんでも「戊辰(ぼしん)戦争(1868年〜1869年)」や土地の開発で、すみかを奪われた狸たちが、浅草寺の本坊、伝法院付近に追われてきたそうです。
狸たちは、腹いせにイタズラの限りを尽くしたそうな。
イタズラを繰り返す狸たちに、当時の人々は大変困っていたといいます。
ある時、当時の浅草寺の住職の夢の中に、イタズラをはたらく狸が現れて、こう言いました。
「お祀りしていただけるのなら、伝法院を火事から守りましょう」
そこで、狸をおまつりするお堂を建てて、伝法院の守り神としたのが「鎮護堂」の始まりです。
江戸時代には浅草寺付近にもタヌキがたくさんいた?!
江戸時代の江戸周辺には現在とは比較にならないぐらいほどタヌキが棲んでいたようです。実際に「タヌキ穴」や「タヌキ塚」と呼ばれた場所が、江戸中(東京中)に点在していたとのことです。
中でもとくに上野周辺には自然が多かったのでタヌキやキツネが数多く棲みついていました。
しかし明治時代になると彰義隊と官軍が上野の山でドンパチと一戦交えたもんだから、そこに棲んでいたタヌキくんたちも大慌てで一目散に逃げ出し、今度は浅草寺の裏側一帯の浅草奥山に棲みつき出したとのことです。
ただ、タヌキたちも生き物。食べるものに困っちまうわけです。
そこで付近住民の家宅に忍び込んで食べ物を盗み食べたり、畑に忍び込んで作物を荒らすわけですな。
そんなとき、浅草寺の和尚「韶舜(しょうしゅん)」の夢枕にタヌキが現れて、こう告げたのだそうです。
『自分たちを保護してほしい。保護してくれたらお詫びに伝法堂を火災から守護します』
この言葉を聞いた和尚は1883年(明治16年)に鎮護堂を造営し、そこに祀ったとのことです。
本当にタヌキたちが伝法堂を守護した?その証に火事がなくなった?!
昭和時代に入ると太平洋戦争が勃発しますが、いよいよ日本軍も劣勢に立たされたとき、日本各地で空襲がはじまります。
それはこの東京も例外ではなく、東京大空襲の時には奇跡的にもこの鎮護堂は火事に見舞われなかったのです。
えぇっ?!鎮護堂は当初、一般公開されていなかった?!
この鎮護堂は造営当初、一般公開などされずにあくまでも伝法院の鎮守として祀られていたようです。しかし火難除けの信仰が広まるにつれ、そのご利益を授かりたいと願う人々が増え始め、今日に見られるように一般解放されたという経緯があります。
鎮護堂境内見どころ
御神木・公孫樹(イチョウ)の木
人々の中には「タヌキが約束を果たした」と噂する者も現れましたが、残念ながらお堂を戦火から救ったのは「おたぬきさま」ではなく、樹齢400年以上だと言われる「御神木・公孫樹(イチョウ)の木」でした。
現在でも、このイチョウの木には空襲の焼け跡が見られます。
ただ、現在に至るまで鎮護堂は火難に見舞われていないということは、やはりタヌキたちが目に見えないところで守護しているのでしょう。
狸が人々を守り、人々が植えたイチョウが狸を守り、助け合いの精神がここにあります。
現在、この鎮護堂が「おたぬき様」と呼ばれているのは言うまでもなく、「火防・盗難除けの守り神」もしくは「他人を抜く=他抜き=勝負運向上」のご利益があると広く信仰されるのは言うまでもない事実です。
拝殿の内部の様子
「鎮護堂」と揮毫された扁額(へんがく)
扁額には金文字で「鎮護堂」と書かれれており、左端に目をやれば「正二位 源建通 敬書」と金文字で書かれていますが、これは「源建通(久我建通/こが たけみち)が揮毫した扁額になるようです。
「鎮護大使者」と書かれた提灯
無数にある金色のタヌキ
崇敬者から奉納された鉄砲狐ならぬ、鉄砲狸?
ちなみにこの金色のタヌキは境内の授与所で購入できる。
幇間たちの連名額
「昭和38年3月吉日」「狸塚建立記念」「全国幇間 睦」と額縁に記されている。
どうやら昭和38年3月吉日に「狸塚」を奉納したのを祝し、幇間(芸人)たちが奉納した額になる模様。
暴れ馬の絵馬
「阿部 弘 作」と書かれた額、右にも連名額が見える。
左端にも連名額が見える。連名額の多さを見ても古来、ひときわ篤い崇敬が寄せられている様子がうかがえる。
拝殿から見た本堂の様子
本堂扉前に座る白狸像
本堂は「入母屋(いりもや)造り」の屋根を持つお堂で、軒下には狸が描かれたり、破風も意匠も際立つお堂です。
本堂には龍の描かれた観音開きの扉が据えられ、その前に招き猫のような像容をもつ、「白狸」が座布団の上で祀られています。
この様子を見ていると、まるで扉の奥の御本尊を扉の前で守護する堂守ともいえまする。
鎮護堂の御本尊「荼吉尼天女」
ご本尊の「荼吉尼天女(ダキニテンニョ)」は、もともと古代インドの神様で、日本では稲荷大神と習合し「出世稲荷の神様」と混同されています。
この神様は通常白いキツネに乗っていますが、鎮護堂では「騎座像」と付くことから白狸に乗っているのでしょう。
商売繁盛、出世成就のめずらしい白狸なのです。
なお、鎮護堂の周りには、狸の置物がいくつか置かれています。
伝法院庭園が見える!
鎮護堂の境内からは通常一般非公開の伝法院の庭園が鉄柵越しにられます。(2021年現在は伝法院は工事中のため一般観覧不可)
この庭園の豊かな自然の中で山を追われた狸たちも安心して暮らせることでしょう。
幇間者(ほうかんもの)の供養塚
「はっ!後ろに写っているのは何者じゃ!であえ、であえ、であえっぃ〜!」
- 奉納年:1963年(昭和38年)
- 奉納者:幇間有志
境内には、男芸者である「幇間者(ほうかんもの)」の供養のための塚がありまする。
この塚は幇間者物故者供養のために幇間有志たちの手によって1963年(昭和38年)に奉納された塚です。
幇間者の「幇」とは、”助ける”という意味があります。ここでの助けるとは、場を盛り上げて遊興事(ゆうきょう)を助ける助っ人的な存在です。
また、幇間者は別名「たぬき」とも呼称されます。
狸は「ポん♪ポこ♪ポん♪すっポンぽん!」と鳴るお腹を持っていますから、「太鼓持ち」である「幇間」が連想されたのでしょう。
「太鼓持ち」はヨイショ!ヨイショ!と、自分以外の者や事柄を持ちあげて出世していくので、鎮護堂のおたぬき様は出世のご利益があるとも云われています。
「たぬき」を「他抜き」と当てて、他を抜くことから出世が連想され、落語家や歌舞伎役者、芸能人がよく参拝していきます。
小説家であり劇作家「久保田万太郎」の俳句の刻字もある!
この幇間者の塚には大正時代後期〜昭和初期に活躍した「久保田万太郎」の俳句も刻まれています。
『またの名の たぬきづか 春ふかきかな』
久保田氏は浅草で生まれた生粋の江戸っ子です。浅草を愛した久保田氏の思いが込められたそんな句であり塚です。
地蔵戦隊(7躯のお地蔵さん)
境内には7躯の赤のヨダレ掛けがかけられた大小の大きさのお地蔵さんが安置されています。
右から‥‥‥
- 加頭観世音菩薩
- 名も無い3躯の小さなお地蔵様
- 加頭観世音菩薩
- 出世子育おやす地蔵尊
- 開運・目白地蔵尊
以上、7躯。
加頭地蔵尊
これら7躯のお地蔵さんの中でも、ちょいとした特異な由緒を持つお地蔵さんがいます。それが「加頭地蔵」です。
- 造立年代:不明
- ご利益:「リストラ除け」
地蔵戦隊のセンター(中央)にあたる位置に安置されているのが、「加頭地蔵尊(かとうそん)」です。
このお地蔵さん、往時は頭と身体が離れていたようですが、現在は本来のお姿に戻すべく、くっけてあることから「加頭地蔵」と呼ばれていまする。
以来、「首がつながる」という俗信が広まり、会社の出勤途中に立ち寄るサラリーマンの姿もチラホラと散見されまする。
「おタヌキ様に出世を願い、加頭地蔵に祈念してリストラを防ぐ」
まさに働くものにとっては最高のご利益をもつスポットと言えるでは?
この辻堂の天井一面に奉納された提灯を見ても理解できるように、古来、その崇敬度合いが知ることができまする。
信楽焼の大きな2匹の‥‥‥夫婦たぬき像?
拝殿脇には大人の女性くらいの身長がある「たぬき像」が2体置かれていますが、よく見れば2体それぞれ微妙に身長が異なることから‥‥‥う〜ん、夫婦像?
このたぬき像の奉納者は定かではありませんが、信楽焼でしょうか?”たぬき像”となると真っ先に信楽が浮かんでしまいます。
料亭や居酒屋に行くと巨大なたぬき像が玄関先に置かれている例が見受けられます。
話は逸れますが、たぬきを玄関先に置く理由は人を笑わせて和やかな気分になってもらうためだとか。現にたぬき像はほとんど前を隠さずフルチンが通例です。前隠しててもそれそれでオモロイかも
2匹とも腹が死ぬほど出ており、勇ましい外観を醸しています。
きっと毎晩ビールに浸るような羨ましいかぎりの生活を謳歌しているのでしょうな。オホ
「鉄砲たぬき」
境内授与所では拝殿に奉納することのできる鉄砲タヌキを授与されています。
場所は境内寺務所です。本堂を向かい見て左側にあります。
おたぬき様の御神徳を授かることで、火事などから御守護くださります。
このたぬきのお守りは少し特殊な語呂が合わせられており、たぬきは「他抜き」とも読めることから学業成就や成績向上のご利益もあると云われています。
歌舞伎俳優「8代目 市川団十郎」が奉納した木製の提灯
- 奉納年:1852年(嘉永5年)
- 奉納者:8代目市川団十郎
- 材質:木製
- 高さ:96㎝
8代目市川団十郎が奉納したと伝わる透し彫りが施された高級感ただよう灯籠が今も堂内にあります。本来、観音堂(本堂)に奉納されたものですが、現在はこの鎮護堂に移されて収蔵されています。
龍頭の手水舎と人気の泉
この手水鉢は明治13年(1880年)市川一門により奉納されたものです。
製作者は不明。発願者は5代目・市川新蔵。
市川新蔵は歌舞伎役者であり、若干8歳で4代目・中村 芝翫(なかむら しかん)に入門。明治7年(1874年)に9代目・市川団十郎の門下に就き、5代目・市川新蔵を襲名しています。
立役の花形として団門四天王の1人と称されていまする。
おタヌキさまは「他を抜く」と言われるとおり、学芸成就のご利益があると役者や芸能人からも篤い崇敬が寄せられ、いつしか、この手水鉢は「人気の泉」と呼ばれ親しまれるようになっていまする〜。
龍の起源は遥か古代インドにまで遡ります。インドの山頂の池に棲むとされ、古来、水の神と信仰されています。手水舎に龍が置かれているのは火難除けの縁担ぎのためです。
火難除けの「おたぬき様」に龍とは最強コンビに違いない。ベジット
水子地蔵尊
よく見ると足元に天使のようにすがるお地蔵さん?
鎮護堂の水子地蔵は少し特徴的な像容をしています。ヨーロピアンチックというかなんというか足元に赤ちゃん天使が5天使ほどひっついています。
しかしよく見るとこれは水子(子供)たちが地蔵菩薩に助けをもとめている様子を表現したものでしょう。幼児の頃に落命してしまうと三途の川を渡れずに地獄の餓鬼の奴隷になると言われます。そんな水子たちを救える存在が地蔵菩薩です。
地蔵菩薩は現世(現代社会)における釈迦のような存在でもあり、救われない子供たちを極楽浄土へ導くとも言われます。この作者はきっと地蔵菩薩が水子たちを救いかけている、もしくは水子たちが地蔵菩薩に助けを求めている様子を像として表現したのでしょう。
鎮護堂の御朱印の種類や時間は?
残念ながら鎮護堂では御朱印を授与しておられません。ただし、浅草寺には御朱印があります。
詳細は下記ページにて!
鎮護堂の開門・閉門時間(営業時間)
鎮護堂は浅草寺子院ですが、浅草寺本体とは営業時間、つまり開門、閉門時間が異なりますのでご注意ください。
- 境内に入れる時間:6時〜17時まで
- お守りの授与(寺務所がオープンしている時間):9時〜17時まで
浅草寺・鎮護堂の場所(地図)
鎮護堂は雷門から仲見世を抜けて、宝蔵門の手前の「こども図書館」の奥、「伝法院」の真隣りにあります。
雷門から仲見世通りをまっすぐ進み、左に曲がれば伝法院通りに出ます。
非公開である伝法院の鎖された扉を通り過ぎると赤い門のお堂が見えてきます。
これが「鎮護堂」です。
混雑を回避したい方は、仲見世通りを避けてオレンジ色っぽい道をした「オレンジ通り」を直進すると突き当たりに伝法院の開かずの扉が見えます。その左側に鎮護堂の赤い門が見えています。(上の写真参照)