えぇっ?!上野動物園の象の森の茂みの中に謎の武将の墓がある?!
実は上野動物園の象の森の茂みの中には一般の方が立ち入ることのできない禁足地帯があり、その禁足地帯の中にはなんと!不気味な石燈籠のようなものが14基も整然と立ち並んでいると言います。
実はこの石燈籠ですが、なぁんと!戦国武将で著名な伊賀初代城主の藤堂高虎とその子孫など、合わせて14人の墓だと云われております。
そして上述のとおり、普段は、大々的に一般公開はされていない一応の禁足地帯となり、つまりは関係者以外は立ち入ることがない場所となります。
以上のことから当然、園内の案内図に表示もありませんが、前述の動物慰霊碑の後ろ側の茂みの奥にコンクリート塀で囲まれた中に14基の墓石が並んでいるので目視はできます。
つまり、このコンクリート塀の囲いによって遮られて中には入れなくなっており、残念ながらどの墓石が誰のものなのかをすべて確認することはできません。
藤堂高虎公のお墓と藤堂家の子孫の墓が上野動物園にある理由
実は現在の上野動物園と上野東照宮がある辺りには、かつて高虎の別邸があったと云われております。
しかし、後に自らよりも先に主君である徳川家康公がこの世を去ることになります。
その主君である家康公を祀るために現在の上野東照宮が造営されましたが、たくさんの人々が主君の参詣に訪れることができるようにと、自らが所持していた残りの土地をすべて幕府に献上しました。
余談とはなりますが、高虎はこの時、東照宮の別当寺として「寒松院(かんしょういん)」を建てており、現在は、戦後に再建されたものが、寛永寺寒松院として、上野公園の鶯谷方面寄りに残っています。
ちなみに上野動物園の「上野」という地名は、高虎が治めた伊賀国(現在の三重県の一部)の上野にちなんでいると言われています。
尚、この「藤堂家墓所」は台東区の有形文化財に指定されています。
ところで・・藤堂高虎とは?
- 生没年:1556年(弘治2年)~1630年(寛永7年)
- 主君:浅井長政・織田信澄・豊臣秀吉・豊臣秀頼・徳川家康・徳川秀忠・徳川家光 ほか
- 所属藩:伊予今治藩主(徳島県)後、伊勢津藩主(三重県津市)
近江国(現在の滋賀県)の片田舎で、豪族の次男として生まれた高虎は決して恵まれた身分の出身ではありませんでした。
しかし、浅井家の下で姉川の戦い、豊臣家の下で賤ケ岳の戦いや朝鮮への出兵など、数々の戦に出陣し多くの武功を挙げ、頭角を現しました。
75歳で亡くなる時には、体中に残った弾丸や槍の傷跡、爪を失ったり、ちぎれて短くなったりした手足の指を見て、家臣たちが驚いたという話が伝わっています。
主君を何度も変えたことで批判されたり嫌われたりすることもありましたが、それぞれの主君には忠実に使え、特に徳川家康・秀忠・家光には気に入られ、重用されました。
上述した弾痕や槍の傷跡や短くなった手足の指が、主君を守らんとせんがための何よりの篤い(=熱い!..アチっ)忠義の証と言えます。
高虎は、関ケ原の戦いで初めて徳川側についたいわゆる外様大名でしたが、関ケ原の戦いと、続く大阪冬の陣・夏の陣での活躍で家康の信頼を獲得し、家康臨終の際には枕元に控えることを許されたほどでした。
家康が亡くなる前に、「貴公とは宗派が違うので来世で再び会えないのが残念だ」と言われると・・ぬぁんと!その場で段取りを整え直ちに改宗し、「これで来世も奉公いたします」と涙を流したという逸話があります。
他に勇敢で優れた武将だった
高虎は槍働きでもそれなりに名を挙げましたが、高虎の名を大きく飛躍させた背景として「築城の名手」という特技があります。
戦の出城や砦の造営の際に、類まれな才を発揮し、後に築城と言えば高虎の名前がまず挙がるほどになって行きます。
高虎はこの築城の技術を売りにして飛躍させ、徳川家代々の将軍の懐刀(ふところがたな)となり、その功績の見返りとして後に伊賀32万石を与えられ、大名の中の大名である大大名となっています。
尚、高虎が携わった城としては、以下のような城が挙げられます。
宇和島城、今治城、津城、伊賀上野城などを築き、二条城、江戸城、駿河城、名古屋城などの建設や修繕にも関わっています。
どれも日本を代表する有名な城ばかりです。ムフ
藤堂家の墓所の場所
上野動物園内の動物慰霊碑の後方の野外休憩所となるベンチのあたりに、コンクリートの囲みの内側に石燈籠のようなものが見えます。
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