東京・浅草神社の境内見どころ「こち亀の碑って何」??

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東京・浅草神社の境内見どころ「こち亀の碑って何」??

浅草と言ったら浅草寺!・・と、いうことで、隣にある浅草神社を忘れてしまっていませんか?

三社祭や結婚式などのイベントがない日は浅草寺ほど賑わいませんが、せっかくですから是非、訪れてみてください。

見どころをピックアップしてご紹介します!

浅草神社の境内・社殿群

浅草神社・本殿(幣殿)【重要文化財】

浅草神社・本殿

創建年

  • 不明
  • 推定:1649年(慶安2年/江戸時代前期)
再建年(大修繕)

  • 1963年(昭和38年)
建築様式(造り)

  • 三間社流造
屋根の造り

  • 銅板葺
重文指定年月日

  • 1946年(昭和21年)11月29日
発願者

  • 徳川家光
本殿(横側から見たアングル)

 

浅草神社・拝殿【重要文化財】

浅草神社・拝殿

創建年

  • 不明
  • 推定:1649年(慶安2年/江戸時代前期)
再建年(大修繕)

  • 1963年(昭和38年)
建築様式(造り)

  • 入母屋造
  • 一重
屋根の造り

  • 本瓦葺
大きさ

  • 向拝:三間(約6m)
  • 梁間:三間(約6m)
重文指定年月日

  • 1946年(昭和21年)11月29日
発願者

  • 徳川家光

社殿とは神社の建物の総称ですが、浅草神社の場合は、本殿・幣殿(へいでん)・拝殿(はいでん)をまとめてこう呼びます。

1649年に、江戸幕府の3代将軍徳川家光によって寄進・建立された社殿で、江戸時代の度重なる火災、関東大震災、そして東京大空襲による被害を免れ、今日まで奇跡的にその姿を留めています。

ちなみに浅草寺の雷門は、江戸時代に少なくとも3度、火災で焼失しています。

本堂や五重塔、宝蔵門も東京大空襲で焼け、それぞれ、戦後やっと再建されました。

これらと比較すると、隣に建つ浅草神社の社殿が江戸時代から今まで残っていることは、奇跡と言っても過言ではないと言えます。

1951年には、国の重要文化財に指定されました。

建物自体ももちろん立派ですが、色鮮やかな鳳凰(ほうおう)、麒麟(きりん)、飛龍(ひりゅう)の絵にも注目してみてくださいな。

拝殿(横側から見たアングル)

⬆️左から飛龍と麒麟、中央に麒麟(青色)、右端に飛龍と麒麟

⬆️左端の脇障子に見える弓矢を持つ御影は現在の社殿を造営したとされる徳川家光公か?

⬆️本殿と拝殿を取り囲む御垣。日光の輪王寺・大猷院の透塀(スケベぃ)にクリソツ(クリソツは死語らしぅぃ)

継殿(幣殿)

浅草神社の社殿は拝殿と本殿の間に幣殿(継殿)と呼ばれる殿舎が挟まり、社伝では俗に言われる「権現造(ごんげんづくり)」とされる様式とされています。ただ、浅草神社の社殿の並びを横から見てみれば分かりまするが拝殿と幣殿と本殿とが完全な一体型ではなく、途中で物理的に乖離されています。

日光東照宮や久能山東照宮、日吉東照宮は社殿が壁面に及んでまで一体型となっており、対して当神社の社殿は途中で壁面が連続していないことから、変造型権現造とも定義できます。

⬆️日吉東照宮の社殿   画像引用先:ウィキペディア


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鳳凰

浅草神社 鳳凰

中国では古来、すぐれた知恵と人格を持った王の代に現れるとされた、クジャクのような5色の羽を持つ想像上の鳥です。
もともとは亀の背中や魚の尾など、現実的な姿で表されたようですが、現在では鳥の造形で表現される例が多く見受けられます。
日本では吉祥、すなわち、「おめでたい柄」として重用されていまする。

身近なところでは、一万円札に描かれています。

麒麟

浅草神社 麒麟

麒麟(きりん)は想像上の霊獣です。優れた王が現れるとその前に現出すると言われます。
胴体は鹿に似ていて、頭には角があり、馬のようなひづめを持ち、背中の毛は5色に輝くとされています。
キリンビールのラベルや缶に描かれているのはこれですね。

飛龍

浅草神社・鳳凰

こちらも想像上の生き物で、その名の通り、空を飛ぶ龍です。
浅草神社に描かれているのは、翼を持ち、短い胴の、日本人にはあまり馴染みのない姿ですが、鋭い爪と長い胴を持つ、よく見る龍の姿で描かれることもあります。

日光東照宮でも手水舎に飛龍が描かれていますが‥‥‥。だとすれば下絵の原案は狩野探幽か?

浅草神社・「夫婦狛犬(めおとこまいぬ)」

浅草神社の鳥居をくぐると、すぐ右手の奥の方に、2体並んで「相合傘」を差した狛犬がいます。

⬆️正面

⬆️横

  • 造立年代:不明(推定:江戸時代初期(1600年代後半〜1700年代前半)

⬆️刻銘:台座上部「諸願成就」

⬆️刻銘:台座左側側面上部「品川町裏河岸 鈴木吉‥‥(読み取り不可)」

ド頭の上には大阪おかんパンチ本気・改‥‥を食らったような穴ボコが空いていますが、往時は角がハメこまれていたとのこと。どんなパンチやねん   くらわしてくれ

狛犬は普通、社殿の前に参道を挟むようにして配置され、魔除けとなるものなので、2体が並んでいるのは珍しいことです。

表情はややミステリあすアス明日へ向かってはばたけ!‥‥で、決してかわいいものではありませんが、仲良く並んで1つの傘の下に収まっている様子は何とも微笑ましいものです。よぅ分からんわ

浅草神社ではこの2頭の狛犬像に相合傘を据え、「良縁」「恋愛成就」「夫婦和合」の願いを込めてお祀りしているようです。うきゃ

狛犬像の場所(地図)

扇塚(古扇 納め箱)

以下、碑文。

案内板の解説

わたくし達、日本舞踊を志すものにとりまして

扇は欠くことのできない品でございます

使い古された扇はどうぞこの箱にお納めください

毎年4月8日にご祈祷の上 扇に感謝のご供養を致します

花柳流・花柳会

この扇塚の古扇納め箱は石造りの箱であり、上部に穴ボコが空いています。‥‥‥が!現在は使用禁止の看板が吊られ、使用できなくなっています。

⬆️中に扇らしき物体が見える

初代花柳壽輔句碑

以下、碑文。

初代花柳(寿)輔句碑略傳

出生 文化4年2月19日、芝・新明にて出生
6才 文政9年、4世西川扇藏の許に入門し舞踊修業の道に入る。
8才 文政11年、7世市川団十郎の鑑識に叶い市川鯉吉の芸名にて舞台を踏む。
19才 天保10年(1839)、旧師西川扇藏の許に復帰し、西川芳次郎として振袖師の第一歩を踏み出す。
25才 吉原の玉屋小三郎より俳号の「花柳」なるの二字を与えられ、以後花柳芳次郎と稱す。
爾後、七世市川団十郎が嘉永2年(1849)、当時市川海老藏を名乗り、その俳名「寿海」に因みて「壽」の字を贈られ、29才にして初めて花柳壽助を名乗り、後に「助」を「輔」に改め、と共に、諸流に冠絶して振付の第一人者として謳はれる事、実に半世紀。その作品は一千五百種を超え、就中「土蜘」 「茨木」「戻橋」「舟辯慶」の如きは不滅の傑作と讃られる。
83才 明治36年(1903)1月28日、花柳流の祖としての偉業を樹て、門弟、縁者に見守られ其の生涯を終る。

浅草観光連盟


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花塚

以下、立て看板の解説

花塚

「濁流(にごりりゅう)」の花道の師、笠翁斉乱鳥の死を悲しんだ弟子たちによって建てられた。
笠翁斉乱鳥は、享和3年(1803)7月晦日死去。
享年88歳。浅草本然寺(曹洞宗、現西浅草3-25-3)に埋葬。悲しんだ弟子たちが、瓶に花を挿したが、衰える花を惜んで地中に埋め塚とした。
戦後、昭和31年(1956)観音堂裏手東北より移転。

  建碑 文化元年(1804)3月17日

「かめに花を挿こと古しへより聞え来れるを近き代には其花をさすにのろ有事と成り其流くさくさに分れぬ。
笠翁斉乱鳥其わざを好てこの大城のもとに濁流としなへて弟子あまた有き。こその文月つごもり、齢八十餘八にてみまかり給。浅草本然禅寺に葬ぬ。ことし3月17日、かの翁の親しき友垣に弟子の集りて、かめに花をさして手向つ。其花のなごりを空しくなさむ事を惜み、はた翁の名の朽さらん事をおもひて、浅草寺の大ひさのみ堂のうしろ清らなる所を撰て其花を埋めて花塚と名付て後の世に残しなんとす。彼弟子の中、平石氏乱雨翁え残されしほゝに笠翁斉の名を残したれば人々共に計りて其事成ぬ其わきかいつけよとこはるゝにいなひあへずして記つ。

  「文化元年七月千蔭」 浅草観光連盟 

⬆️石碑の裏側「笠翁斉 翁」「門人◯置く」  

どうも平石氏(乱翁)という人物の他界を惜しんだ門人(弟子達)がその遺徳を偲んで建てた石碑になるもよう。

粧(よそおい)太夫碑

以下、碑文。

粧太夫碑(蕋雲(ずいうん)女史書の柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ)歌碑) 

 ほのぼのと明石の浦の朝霧に
    島かくれゆく船をしぞ思う

 有名な万葉歌人柿本人麻呂の和歌を万葉仮名で刻んだもので、骨太な文字を認めたのは、碑文にあるように蕋雲女史である。
 蕋雲(ずいうん)は文化年間(1804~1817)、遊里新吉原の半松楼に抱えられていた遊女で、源氏名を粧太夫といい、、その号である。粧太夫として当時の錦絵にも描かれており、書を中山敬義(なかいたかよし)に学び、和歌もたしなむ教養ある女性で、江戸時代の代表的な文人、亀田鵬斎(かめだぼうさい)から蕋雲の号を贈られたほどの人物であった。
 この歌碑は人麻呂を慕う太夫が、文化13年(1816)8月、人丸社に献納したものである。人丸社は幕末の絵図によると、三社権現(現在の浅草神社)の裏手にあったが、明治維新後に廃され、碑のみが被官稲荷神社のかたわらに移され、昭和29年11月、現在地に移された。

平成8年3月 台東区教育委員会

久保田万太郎句碑

『竹馬や いろはにほへと ちりぢりに』

奥のヘンテコな形状の石碑の裏側に書かれた碑文↓

以下、碑文。

久保田万太郎は東京の人 明治22年11月7日生まれ 昭和38年5月6日にわかに逝く 慶應義塾在学中年22のとき小説朝顔の一遍によって文壇に知られて以来50年 小説戯曲及び俳句に名作多く前に日本芸術院会員に選ばれ 後に文化勲章を授けられ 更に逝去に際し従三位勲一等に叙せられたのはその栄とするところと成る 

観世音周辺一帯の地の四時風物とその民俗人情を描いた大小の諸編は日本文学に永く浅草を伝えるものというべきであろう ここに有志の者等相図り この地をとし 句碑を建てて其人を偲ぶ

時に昭和40年11月7日 小泉信三

どうも明治に名を馳せた経済学者・小泉信三(こいずみしんぞう)という人物が感銘を受けた久保田万太郎の遺徳を讃えるために建てた石碑のようだ。

川口松太郎句碑

以下、碑文。

生きると いうこと
   むずかしき 夜寒かな

川口松太郎ハ明治三十二年十月一日浅草今戸ニ生レル 昭和十年第一回直木賞受賞ノ「鶴八鶴次郎」ヲ初メトシテ小説脚本ニ名作多ク文壇劇壇ニ多大ナ足跡シルス 特ニ新派俳優花柳章太郎水谷八重子等ニヨッテ演ジラレタ情緒豊カナ諸作品ハ観客ヲ魅了ス 這般ノ功績ニヨリ三十八年菊池寛賞受賞 四十年芸術院会員 更ニ四十四年「しぐれ茶屋おりく」ノ一篇ニヨリ吉川英治文学賞受賞 四十八年文化功労者ニ叙せられる 最晩年渾身ノ筆デ連載小説「一休さんの門」ヲ脱稿後昭和六十年六月九日永眠ス 行年八十五才 三回忌ニ因ミ故人ノ終世ノ師久保田万太郎ノ傍ラニ同ジク句碑ヲ建テテ這者ヲ偲ブ

昭和六十二年六月九日
  松竹株式会社 文芸春秋社
  劇団新派 講談社
  明治座  読売新聞社

 浅草観光連盟

⬆️石碑の裏側

名もなき井戸

一見すると、謎多き祭場に思えるのだが‥‥‥、裏側へまわってみると‥‥‥

ギャぁ〜ーーーーー!!!

‥‥‥

ただの井戸でした。オヒっ  なんやねんそれ ムカつく

河竹黙阿弥顕彰碑

以下、碑文。

河竹黙阿弥(かわたけもくあみ)は江戸末期から明治中期まで活躍した歌舞伎の狂言作者である
文化13年3月江戸日本橋通2丁目4代越前屋勘兵衛の長男として生まれ幼
名を吉村芳三郎といった
若い頃は遊楽生活を送ったが 20歳で狂言作者五世鶴屋南北に師事 はじめ二世河竹新七の名を継いだ 天保14年江戸三座が浅草猿若町に移転し終ると間もなく黙阿弥も芝からこの浅草の正智院の地内に居を移し 四世市川小団次に多くの新作世話物を書いた 明治維新後は九世市川団十郎 五世尾上菊五郎 初代市川左団次のために世話物 時代物のほか舞踏劇などを執筆した 明治14年(1881)古河黙阿弥と改名し その後も劇作を続けた 作者生活50年 著作は350余編 江戸歌舞伎後半期の第一人者の地位にあり 特に 世話物を得意とした その音楽的効果や味わいは黙阿弥調として知られる
代表作には「青砥稿花紅彩絵(あおとぞうしはなのにしきえ)(白浪五人男)」のほか「三人吉三廓初買(さんにんきちくるわのはつかい)(三人吉三)」 「天衣紛上野初花(くもにまごううえののはつはな)(河内山)」などがある  明治26年(1893)1月歿 78歳

昭和43年10月 東京百年記念

東京都台東区長 上條 貢 

初代市川猿翁句碑

以下、碑文。

建碑  昭和42年5月17日
撰文  市川猿

孫団子に三代目猿之助を譲り、自らは猿翁を襲名。
昭和38年5月、歌舞伎座に於て襲名興行。
(浅草寺の襲名お練りは4月16日)
『猿翁』(昭和39年6月東京書房刊)には、「翁の文字まだ身にそはず衣がへ 猿翁 昭和37年5月 猿翁襲名のとき」とある。
明治21年5月10日、浅草千束町2丁目に生れる。
父、喜熨斗亀次郎(初代市川猿之助ー段四郎)、母古登の長男。(弟妹は十人)兵役を終えたのち明治43年10月(22才)で二代目市川猿之助を襲名。
昭和38年6月聖路加病院(心不全)にて死去。享年75才。
昭和36年3月28日浅草3丁目39番地に生家に因みて「猿之助横丁碑」を建てる。

浅草観光連盟

浅草神社・「こち亀の碑」

浅草神社には、「友情はいつも宝物」と書かれた大きな石碑が立っています。

こちら葛飾区亀有公園前派出所・記念碑

これは、なんと漫画「こちら葛飾区亀有公園前派出所(こち亀)」の石碑です。

「こち亀」の1万3000部発行記念として、2005年に建てられました。

神社には不釣り合いと感じるかもしれませんが、実は浅草は主人公、両津勘吉(両さん)の故郷で浅草神社は漫画にも登場するんです。

石碑のモチーフとなったのは、両さんが小学生の頃の友情にまつわるエピソードを描いた「浅草物語」です。

「こち亀」の中でも、人気エピソードを選ぶ投票が行われる度に1位を獲得するほど人気かつ有名な話なんですよ。

この話にちなみ、石碑には人を思いやることの大切さや、子どもたちが夢を持って健やかに育つようにという願いが込められています。

こち亀のタイムカプセルの石碑

こちら葛飾区亀有公園前派出所・記念碑タイムカプセル 浅草寺の境内にはもう1つ「こち亀」の石碑があります。

その石碑と言うのが「タイムカプセル」です。

この石碑の下に2000年に読者から寄せられた「夢の手紙」が埋められています。

いつ頃、オープンされるのかは未定となっています。

気になったあなたは、石碑と共に漫画もチェックしてくださいね。

こち亀の石碑の詳細に関しては、当サイトの別記事にてご紹介しておりますのでソチラをご覧下さい。↓

関連記事: ・浅草・浅草寺(浅草神社)「こちら葛飾区亀有公園前派出所・記念碑」


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三社祭

浅草神社では例年5月第3週の金・土・日曜日になると「三社祭」という東京ひいては日本屈指の例大祭が執り行われまする。

三社祭の名前の由来は浅草神社の旧名である「三社大権現社」もしくは、「三社明神社」にちなんだものとされています。

三社祭の見どころや開催日程・混雑具合については下記ページをご参照ください。

境内では三社祭の神輿も観れる!

社務所の横には、普段、シャッターが閉じられた建物がありますが、この建物の中にはお神輿が収められています。

このお神輿こそが三社祭で使用される3柱の神の神霊を奉安する神輿です。

普段はこうして大切に収納されています。

このお神輿が観れるのは主に正月期間(元旦〜松の内くらいまで)です。

あとは三社祭本番の時になります。

被官稲荷神社

浅草神社の本殿の隣には「被官稲荷神社(ひかんいなりじんじゃ)」というお稲荷さんが鎮座しています。

この神社は古来、浅草神社の鎮守社であり、お稲荷さんの総本宮として知られる有名な京都・伏見稲荷大社から、直に神様のご分神を移して奉斎している由緒ある神社です。

被官稲荷神社の詳細については下記ページをご覧ください。ここらでちょっとゲップしとこ ”ゔぁっ”

‥‥‥

‥‥‥。

神楽殿にてお神楽も観れる!

知ってましたか?

なんとぉぅ!浅草神社には神楽殿があります。場所は鳥居をくぐって直ぐの右側にある赤い建物です。

⬆️神楽殿

神楽殿は普段は使用されませんので三方の扉は閉扉されていますが、正月(新春巫女舞奉奏)や祈年祭、三社祭、夏詣などを迎えると、扉が開扉され、巫女舞がを奉奏されます。

夏詣では豊栄の舞、浦安の舞。

それと、節分になるとこの神楽殿では毎年恒例!年男・年女参加の「豆撒き」が盛大に行われます。また、豆まきの後にも巫女舞が奉奏されます。

‥‥‥あっ!これにてぇ〜、いっけん落着ぅ! いきなりどうしてん 己の内部で何が起こった

正月はイベントも行われる!

正月(1月)三が日、もしくは松の内くらいまでは境内にてイベントが行われる場合がありまする。

令和3年(2021年)の正月元旦には日光からはるばる日光猿軍団が興行で猿芸を原則無料で披露していました。

⬆️芸をする猿くん

2020年12月には、東京大衆歌謡楽団による演奏会も開催されています。

⬆️昭和初頭を彷彿とさせるレトロな演奏で境内が包まれた

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