浅草寺・宝蔵門の「小舟町の大提灯」と「魚がしの大提灯(吊り灯篭)」の大きさや歴史を‥‥知りタィ?

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浅草寺の大提灯が吊られているのは雷門だけじゃゴザんせん!

雷門後方にそびえる宝蔵門にも大提灯が吊られてい‥‥申す。

しクぁも!宝蔵門の大提灯は雷門や本堂の大提灯とは少し使用が異なり、のぉあんと!提灯の左右に提灯のような形をした金属製の灯籠が2基、提灯を挟み込むようにしてその両側左右に吊られてい‥‥申す。

この摩訶不思議な宝蔵門の大提灯と提灯のような灯籠の謎について、ちょ〜っち知りたくありやせんかぃ?

⬆️左右に「魚がし」右に「小舟町」と大きく書かれている

小舟町の大提灯の大きさ・重さ・歴史

⬆️小舟町の大提灯。金枠の餝り金具に小舟町を示す「船」の刻字が見える

  • 高さ:3.75m
  • 横幅幅:2.7m
  • 重さ:450kg
  • 制作会社:高橋堤燈株式会社(京都市下京区
  • 紙の材質:因州和紙(いんしゅうわし)※鳥取県の伝統工芸品
  • 奉納者:小舟町(こぶなちょう)奉賛会(東京日本橋)

宝蔵門の「小舟町の大提灯」の歴史

宝蔵門の大提灯の歴史は、雷門や本堂に吊るされた提灯よりも古く、浅草寺境内に吊るされた大提灯の中では最古の歴史を有すると云われまする。

伝承では、1657年に日本橋魚河岸の信徒たちが崇敬の証として奉納したのが提灯を奉納する風習の始まりと云われ、以来、不定期ですが1657年(明暦3年)から現在に至るまで350年以上も続けられてい‥‥‥申す。グハっ

なお、後述していますが、小舟町の大提灯には江戸時代、「四日市」と大きく墨書きされた提灯が吊られていたのです。

ところが現在は「魚がし」と大きく金字で書かれた金属製の吊り灯籠へと吊り替えられています。この理由については下記をご覧くだすわぁぃ。


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魚がしの大提灯(吊灯籠)の大きさ・重さ・歴史

⬆️魚がしの大提灯‥‥ではなく、これは金属製の吊り灯籠!。下に印判のようなものが見えるが、これは「飾り文字」。『魚市場』と書かれている。

  • 高さ:約3m
  • 横幅:約2.3m
  • 重さ:-kg
  • 材質:ブロンズ(銅製)
  • 制作会社:梶原製作所(富山県高岡市)
  • 制作期間:約1年
  • 奉納年:昭和48年(2021年9月時点)
  • 奉納者:魚河岸講(魚市場の有志一同)」

魚がしの大提灯(吊り灯篭)の歴史

この吊り灯籠は昭和48年に梶原製作所(富山県高岡市)という明治初期創業の鋳物を取り扱う会社で製造された特注の提灯になるようです。

材料は紙ではなく、「銅(ブロンズ)」が使用されてい‥‥‥申す。アヘっ

なぜブロンズ製の提灯に替えられたのか?

浅草寺の提灯に用いられている文字は元来、江戸の魚河岸で独自に使用されてきた文字だったのです。それゆえ、「江戸文字」とも呼ばれ、ほかでは見られない独自の書体になりまする。

魚河岸の人々は後述、四日市の提灯に見られるように3つの提灯を江戸時代より奉納してきたのですが、せっかく作った紙製の提灯、できるだけ長く使用してもらいたい。

しかし紙製であれば平均で6年、長くもって10年が寿命。

そこでできるだけ長く、文化を後世により確実な形で伝えていきたいという願意から、このような世にも稀な金属製の巨大提灯‥‥ではなく、巨大「吊り灯籠」が誕生することになるのです。

2021年9月現在、宝蔵門に吊られている吊り灯籠は制作期間に約1年を費やして、梶原製作所が昭和48年に奉納した提灯になりまする。

巨大な吊り灯籠ということで、頑強さを兼ね添えた備えた上で、どこまで軽量化できるのか?さらに金属感を抑えて紙の風合いをもたせるのに苦労を重ねたとのこと。

鋳造だと使用する銅板の厚さを7ミリ程度に抑えることができることから、最終的に鋳造した部分と鍛金の銅板とを組み合わせて完成されていまする。

江戸時代はの宝蔵門の提灯の文字は「小舟町」と「四日市」だった?!

ちょぃと下掲画像の絵図をご覧くだせぇな。

⬆️3つの間口の両脇に吊られている提灯の文字『四日市』が見えるだろうか?

この絵図は1684年〜87年(貞享年間)の宝蔵門の様子を描いたものでゴザんすが、吊られている提灯をよく見ると「小舟町」の他にも「四日市」という文字が描かれているのが分かりまする。

この四日市の大提灯も「小舟町」と同様、やはり徳川家康公の恩顧に報いるために魚市場が人々が奉納した提灯です。

江戸時代の浅草寺は浮世絵で描かれるだけでなく、川柳などの句でも数多く詠まれてい‥‥‥申す。

提灯を題材とした川柳としては次のようなものがありまする。

『提灯に 釣り鐘負ける 浅草寺』

大型の提灯ばかりが境内の各所に吊られている‥‥などの当時の風情をよく表した一文です。

四日市とは?

四日市とは、日本橋と江戸橋の間にあった川より南側の大路あたりに広がる町のことを「四日市町」と呼んだのです。

毎月、四の日になると市が立つ町であったことから、いつしか「四日市町」呼ばれるようになってい‥‥申す。

しかしながら、明暦の大火事(明暦3年旧暦1月18日から20日(1657年3月2日 – 4日))の後、幕府は1657(明暦3年)4月から9月にかけて、庇切り(ひさしきり)の町触れを発出します。

これにより、四日市町では町家を移転させ防火壁が造成される話がまとまりまする。

この防火壁は日本橋川沿いに二町半(約272.5m)にわたって積み石を行い、高さ4間(約7.2~7.8m)の土手蔵(どてぐら)も築きあげられます。

⬆️三代歌川広重・作明治14年(1881年)9月の江戸橋川沿いの土手蔵の様子(三菱倉庫) 画像引用先:文化遺産オンライン

防火壁ができた後は「元四日市町(もとよっかいちちょう)」と呼ばれるようになり、川沿い(現在の日本橋南詰東詰)を「四日市河岸(よっかいちがし)」と呼ばれるようになり、多種多様な市が立った場所でした。

なぜ小舟町の大提灯は奉納されるようになったのか?

関東大震災以前まで日本橋は江戸の魚河岸でした。「江戸の湊」と呼ばれ、水運を通じて諸国からの様々な生産物が集まるような集散地だったのです。

その日本橋から見た小舟町は内陸部にあり、目のと鼻の先の距離にある町でしたが、やがて日本橋で荷揚げされた生産物を小舟町で販売する商人が出没し、その品物を買いに人が集まりはじめます。

すると、さらに店を構える商人たちが増え、やがてその様相は大きな広まりをみせます。

こうして気がつけば江戸屈指の賑わいを見せる問屋街が形成され、明治時代になると団扇を扱う団扇問屋までもが増え始めまする。その影響からか神田神社(現在の神田明神)境内に鎮座する「小舟町八雲神社」において「小舟町天王祭」という例祭が4年に1度、執り行われるまでになってい‥‥‥申す。

このように幾多の商売人が行き交った古い歴史を有する町であった経緯から、往時の小舟町の繁栄と当時の信仰心を復興させ、「小舟町」の町名をデカデカと大きく書き入れた大提灯を奉納することになってい‥‥申す。

平成15年10月5日には、江戸開府400年を機に、約15年ぶりに大提灯が奉納されてい‥‥‥申す。グホっ

現在では、不定期ながら奉納を伝統行事と位置付けて、小舟町の町民や企業はじめ、様々な小舟町に思い入れのある人々、そして徳川家康公にひいきにされた魚市場の人々が協力して奉納してい‥‥申される。 …申される?

ちなみに魚河岸講は宝蔵門の提灯以外にも天水桶も本堂脇に奉納してい‥‥申す。この天水桶は昭和33年に奉納されたものです。


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宝蔵門の大提灯の特徴

宝蔵門の大提灯の特徴としては、雷門や本堂の提灯と同じく、提灯の下部(底部分)に龍の姿が一枚の板に彫られていることがまず、挙げられ‥‥(息止め)‥‥申す。….ゼぇハぁ

‥‥‥こホンっ。

門をくぐるときにでも、ぜひ、女の子のスカートをのぞき見るようにしてぇ〜、エロスティックに美しく弧を描くようにして‥見上げてみて下すわぁぃ…弧を描く? どゆ意味や

宝蔵門の「小舟町の大提灯」

宝蔵門の大提灯の下部(底面)龍の彫刻の作者は誰?

この宝蔵門の大提灯も高橋提灯(株式会社)が手がけていることもあり、龍の彫刻は雷門、宝蔵門の大提灯と同じく、木彫師の渡辺崇雲氏の仕事です。

一枚板に龍の姿の彫り物が見事に表現されてい‥‥‥申す。

龍の彫刻が用いられた理由は、浅草寺が創建された故事に由来するものです。詳細は下記ページにて述べてい‥‥申す。グハっ

ところで‥‥『宝蔵門の大提灯の値段はいくら?』

大提灯の取り付け作業をされているときに一度、高橋提灯さんに聞いたことがあるのですが、どうやら大提灯の値段は公表していないようです。

これはプライベート事情にも関わってくることなので、あくまでも秘密♡とのこと。

しかしながら、目算はできます。

この小舟町の大提灯は、およそ500万円から600万円ほどだと言われます。これは奉納者のボスである東京日本橋連合町会長さんがインタビューで明かしてい‥‥‥申す。

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