浅草・浅草寺「二天門」【重要文化財】

創建年
- 1618年(元和4年)
再建年
- 1649年頃(慶安2年頃)
建築様式(造り)
- 切妻造
- 本瓦葺
- 八脚門
大きさ
- 三間一戸(約5.5m)
重文指定年月日
- 1946年(昭和21年)11月29日
浅草寺・二天門の読み方
浅草寺の境内には、読みにくい名前の仏像やお堂が立ち並んでいますが「二天門」は、「にてんもん」と読みます。
「二天門」と呼ばれる理由
この二天門には四天王のうちの2尊である増長天と持国天を安置していることから「二天」が付されています。
浅草寺「二天門」の役割り
この二天門は浅草寺の二天門として浅草寺を守護する役目を担っていますが、実は元来、浅草寺を守護する門ではなく、かつて浅草寺境内に存在した「東照宮」を守護するための随身門(ずいじんもん)でした。
随身門とは、神社の仁王門バージョンだと考れば分かりやすいです。
仁王門やこの二天門には「仁王像」や「四天王」が置かれますが、同じように門の両脇に「随身像(ずいじんぞう)」と呼ばれる像が安置されています。目的は魔を退け、立ち入る者を見張るためです。
ただ、随身門は神社の門になりますので、当然、安置されているには仏像ではなく、上述したような随身像になります。
しかし、現在の二天門は寺院の門ですので随身像はありません。
浅草寺・二天門の歴史・由来
かつてこの二天門には「豊岩間戸命(とよいわまどのみこと)」と「櫛岩間戸(くしいわまどのみこと)」の二柱の神が像として安置されていました。この当時は「矢大神門(やだいじんもん)」と呼ばれ、民衆からもひときわ篤い崇敬が寄せられていました。
しかし、1631年(寛永8年)と1642年(寛永19年)の2回にわたって浅草東照宮が焼失し、その後、浅草寺境内においての東照宮再建は許されず、東照宮は江戸城内の「紅葉山」に遷されることになります。
2体の随身像に関しては浅草寺の脇に建つ「浅草神社」へ遷されて安置される運びとなり、代わりにこの二天門には1883年(明治16年)2月1日に、鶴岡八幡宮(鎌倉)の経蔵から遷されてきた二天像(広目天/こうもくてん・持国天/じこくてん)が安置されることになります。
この時に初めて「二天門」と改称されていますが、このときの二天は戦時中の修理先にて焼亡し、灰燼に帰しています。
現在の二天(増長天・持国天)は、その後、寛永寺(上野)境内に建つ、徳川家綱公の霊廟・「巌有院(げんゆういん)」から下賜されたものです。
過去、この二天門は幾度もの火災に見舞われていますが、皮肉にも第二次世界大戦の戦時下においては奇跡的に戦火から免れており、現在に至っては浅草寺境内における最古の建造物の1つとなっています。
そして1946年(昭和21年)11月29日には、国指定の重要文化財の指定を受けています。
浅草寺・二天門の建築様式(造り)・特徴
屋根は切妻造りで「本瓦葺(ほんかわらぶき)」です。
木造の八脚門は朱色に塗られています。
三間一戸(さんげんいっこ)の門で、柱の間は三間あり、その真ん中に出入口が一つあります。
出入口の両隣の間には二天の像が置かれていることから「二天門」と名付けられました。
門の造りは八脚門となっており、本柱の4本以外に門の前後に柱が4本ずつ合計で12本で構成されている形式の門となります。
二天門の見どころ
浅草寺・二天門「二天像」【東京都指定都重宝】
- 造立年:江戸時代前期
- 作者:吉田兵部藤房(京都七条の仏師)
- 造立方法:寄木造
上述したように現在の仁王門には、太平洋戦争後、徳川家綱の墓所である東京・上野の「寛永寺・厳有院」から譲り受けた、増長天(ぞうちょうてん)と持国天(じこくてん)が安置されています。
増長天も持国天も、四天王のうちの一人です。
増長天、持国天はともに、邪鬼を踏んでいます。
どちらも江戸時代に造られたもので色はほとんどはげていますが、増長天は赤色、持国天は青色の像です。江戸時代前期の造立でありながら、増長天の方には顔面にまだ彩色が残っています。
持国天の方も近づかないと分かりづらいのですが、お顔に少し青色の色彩が残っています。かつて両像には基調色として肌にはそれぞれ青色と赤色が施され、鎧には彩色が施されていた様子がうかがえます。
目はつり上がり、一見すれば恐怖感を覚えるほどの像容をそなえていますが、よく見ると感情的に怒っているというよりも諌めているような気もします。この二天像からは、恐ろしさの中に正義感や温もりが感じられます。
くじけそうな時は、この二天像に一喝してもらいに行くとよろしおま!
「二天門」と書かれた扁額
二天門にも扁額(へんがく)が掲げられています。この扁額は三条実美(さんじょうさねとみ)公が1883年(明治16年)2月1日に揮毫して奉納されたものです。
大きく「二天門」と書かれています。
手水舎(ちょうずや)※水盤
素通りする方ほとんどですが、この二天門の境内外側にはちょっとした曰く付きの「手水舎」が置かれています。ただし、手水舎とはいえ水が溜められていて実際に手を洗えるわけではなく、現在に至っては見世物として置かれています。
この水盤(手水舎)の筐体をよく見ると「金龍山随身門前」との刻字がみられます。
かつてこの浅草寺境内に東照宮が確かに存在したことを裏付ける刻字だといえます。
浅草寺・二天門 場所(地図)
浅草寺の二天門は、仲見世商店街もしくは宝蔵門から浅草寺境内へ入った東側(右側)の門になります。浅草神社の入口鳥居前にある門です。
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