浅草・浅草寺「鎮護堂」
創建年
- 1913年(大正2年)
建築様式(造り)
- 寄棟造(本殿)
- 切妻造(拝殿)
屋根の造り
- 本瓦葺
ご本尊
- 荼吉尼天女騎坐像
- おタヌキさま(鎮護大使者)
- 公孫樹の木(御神木)
ご利益
- 火難除け
- 盗難回避
- リストラ回避
- 出世成就
- 商売繁盛
- 来運招福
法要(行事)
- 大祭日:「春」3月17日
- 大祭日:「秋」11月4日
- ご縁日:毎月1日と15日
浅草寺・鎮護堂の読み方
「鎮護堂」の読み方は「ちんごどう」と読みます。ご本尊として「荼吉尼天女騎坐像(だきにてんにょ きざぞう)」をおまつりしています。
鎮護堂の歴史・由来と創建理由
1883年(明治16年/明治時代)、「戊辰(ぼしん)戦争」や土地の開発で、すみかを奪われた狸たちが、浅草寺の本坊、伝法院付近に追われてきたそうです。
狸たちは、腹いせにイタズラの限りを尽くしました。
イタズラを繰り返す狸たちに、当時の人々は大変困っていたといいます。
ある時、当時の浅草寺の住職の夢の中に、イタズラをはたらく狸が現れて、こう言いました。
「お祀りしていただけるのなら、伝法院を火事から守りましょう」
そこで、狸をおまつりするお堂を建てて、伝法院の守り神としたのが「鎮護堂」の始まりです。
江戸時代には浅草寺付近にもタヌキがたくさんいた?!
江戸時代の江戸周辺には現在とは比較にならないぐらいほどタヌキが棲んでいたようです。実際に「タヌキ穴」や「タヌキ塚」と呼ばれた場所が、江戸中(東京中)に点在していたとのことです。
中でもとくに上野周辺には自然が多かったのでタヌキやキツネが数多く棲みついていました。
しかし明治時代になると彰義隊と官軍が上野の山でドンパチと一戦交えたもんだから、そこに棲んでいたタヌキくんたちも大慌てで一目散に逃げ出し、今度は浅草寺の裏側一帯の浅草奥山に棲みつき出したとのことです。
ただ、タヌキたちも生き物。食べるものに困っちまうわけです。
そこで付近住民の家宅に忍び込んで食べ物を盗み食べたり、畑に忍び込んで作物を荒らすわけですな。
そんなとき、浅草寺の和尚「韶舜(しょうしゅん)」の夢枕にタヌキが現れて、こう告げたのだそうです。
『自分たちを保護してほしい。保護してくれたらお詫びに伝法堂を火災から守護します』
この言葉を聞いた和尚は1883年(明治16年)に鎮護堂を造営し、そこに祀ったとのことです。
本当にタヌキたちが伝法堂を守護した?その証に火事がなくなった?!
昭和時代に入ると太平洋戦争が勃発しますが、いよいよ日本軍も劣勢に立たされたとき、日本各地で空襲がはじまります。
それはこの東京も例外ではなく、東京大空襲の時には奇跡的にもこの鎮護堂は火事に見舞われなかったのです。
えぇっ?!鎮護堂は当初、一般公開されていなかった?!
この鎮護堂は造営当初、一般公開などされずにあくまでも伝法院の鎮守として祀られていたようです。しかし火難除けの信仰が広まるにつれ、そのご利益を授かりたいと願う人々が増え始め、今日に見られるように一般解放されたという経緯があります。
鎮護堂のその他の見どころ
御神木・公孫樹(イチョウ)の木
人々の中には「タヌキが約束を果たした」と噂する者も現れましたが、残念ながらお堂を戦火から救ったのは「おたぬきさま」ではなく、樹齢400年以上だと言われる「御神木・公孫樹(イチョウ)の木」でした。
現在でも、このイチョウの木には空襲の焼け跡が見られます。
ただ、現在に至るまで鎮護堂は火難に見舞われていないということは、やはりタヌキたちが目に見えないところで守護してくれているんだろうと思います。
狸が人々を守り、人々が植えたイチョウが狸を守り、助け合いの精神がここにあります。
現在、この鎮護堂が「おたぬき様」と呼ばれているのは言うまでもなく、「火防・盗難除けの守り神」もしくは「他人を抜く=他抜き=勝負運向上」のご利益があると広く信仰されるのは言うまでもない事実です。
浅草寺・鎮護堂の境内は、狸、狸、そして..「白狸」??
鎮護堂入口の赤い門をくぐって中に入ると目に入るのは信楽焼の大きな2匹の狸です。
さすが、おたぬきさまと呼ばれる「鎮護堂」です。しかし寄棟造りの屋根のお堂には、狸の姿は見られません。
ご本尊が置かれているのは、この建物の奥なのです。
伝法院の庭の中にあるので、一般の人は入る事ができませんが、柵のむこうにその様子はうかがえます。
そっとのぞいてみると、小さな建物の割に、大きな屋根がかかるお堂が見えます。
「入母屋(いりもや)造り」の屋根を持つお堂で、屋根瓦の「棟飾り(屋根の飾り)」に狸が描かれており、軒下の破風も凝ったデザインがあるお堂になっています。
龍の描かれた扉の前には、招き猫のような姿の「白狸」が座布団の上で座っています。
鎮護堂の御本尊「荼吉尼天女」
ご本尊の「荼吉尼天女(ダキニテンニョ)」は、もともと古代インドの神様で、日本では稲荷大神と習合し「出世稲荷の神様」と混同されています。
この神様は通常白いキツネに乗っていますが、鎮護堂では、白狸に乗っているのでしょう。
商売繁盛、出世成就のめずらしい白狸なのです。
なお、鎮護堂の周りには、狸の置物がいくつか置かれています。
鎮護堂からは、通常非公開の伝法院の庭園が垣間見られるのですが、この庭園の豊かな自然の中で、山を追われた狸たちも安心して暮らせることでしょう。
幇間者(ほうかんもの)の供養塚
鎮護堂はサラリーマンにとって最高のご利益のスポット!!
境内には、男芸者である「幇間者(ほうかんもの)」の供養のための塚があります。
- 奉納年:1963年(昭和38年)
- 奉納者:幇間有志
この塚は幇間者物故者供養のために幇間有志たちの手によって1963年(昭和38年)に奉納された塚です。
幇間者の「幇」とは、”助ける”という意味があります。ここでの助けるとは、場を盛り上げて遊興事(ゆうきょう)を助ける助っ人的な存在です。
また、幇間者は別名「たぬき」とも呼称されます。
狸は「ポん♪ポこ♪ポん♪すっポンぽん!」と鳴るお腹を持っていますから、「太鼓持ち」である「幇間」が連想されたのでしょう。
「太鼓持ち」はヨイショ!ヨイショ!と、自分以外の者や事柄を持ちあげて出世していくので、鎮護堂のおたぬき様は出世のご利益があるとも云われています。
「たぬき」を「他抜き」と当てて、他を抜くことから出世が連想され、落語家や歌舞伎役者、芸能人がよく参拝していきます。
小説家であり劇作家「久保田万太郎」の俳句の刻字もある
この幇間者の塚には大正時代後期〜昭和初期に活躍した「久保田万太郎」の俳句も刻まれています。
『またの名の たぬきづか 春ふかきかな』
久保田氏は浅草で生まれた生粋の江戸っ子です。浅草を愛した久保田氏の思いが込められたそんな句であり塚です。
加持地蔵尊
また、境内左手のお地蔵様は「加持地蔵尊(かじじぞうそん)」と言われ、頭と体が離れていたものが、今では見事にくっついています。
首がつながっていることから「リストラ除け」になるそうです。
「出世を願ってリストラを防ぐ」
まさに働くものにとっては最高のご利益スポットと言えるでしょう。
夫婦のたぬきの像?
拝殿脇には子供ぐらいの身長をした「たぬき像」が2体置かれています。夫婦像でしょうか?2体それぞれ微妙に身長が異なります。
このたぬき像の奉納者は定かではありませんが、信楽焼でしょうか?”たぬき像”となると真っ先に信楽が浮かんでしまいます。
料亭や居酒屋に行くと巨大なたぬき像が玄関先に置かれている例が見受けられます。
話は逸れますが、たぬきを玄関先に置く理由は人を笑わせて和やかな気分になってもらうためだとか。現にたぬき像はほとんど前を隠さずフルチンが通例です。前隠しててもそれそれでオモロイかも
浅草寺・鎮護堂の「たぬきのお守り」
浅草寺・鎮護堂では「たぬきのお守り」を授与することができます。
場所は境内寺務所です。本堂を向かい見て左側にあります。
おたぬき様の御神徳を授かることで、火事などから御守護くださります。
このたぬきのお守りは少し特殊な語呂が合わせられており、たぬきは「他抜き」とも読めることから学業成就や成績向上のご利益もあると云われています。
歌舞伎俳優「8代目 市川団十郎」が奉納した木製の提灯
- 奉納年:1852年(嘉永5年)
- 奉納者:8代目市川団十郎
- 材質:木製
- 高さ:96㎝
8代目市川団十郎が奉納したと伝わる透し彫りが施された高級感ただよう灯籠が今も堂内にあります。本来、観音堂(本堂)に奉納されたものですが、現在はこの鎮護堂に移されて収蔵されています。
龍頭の手水舎
竜頭の吐水口があります。手水鉢は少し職人の意匠がうかがえますが、これは市川一門が自座の繁栄と幇間者を供養するために職人に作らせて奉納したものです。
龍の起源は遥か古代インドにまで遡ります。インドの山頂の池に棲むとされ、古来、水の神と信仰されています。手水舎に龍が置かれているのは火難除けの縁担ぎのためです。
火難除けの「おたぬき様」に龍とは最強コンビに違いない。ベジットブルー級
水子地蔵尊
よく見ると足元に天使のようにすがるお地蔵さん?
鎮護堂の水子地蔵は少し特徴的な像容をしています。ヨーロピアンチックというかなんというか足元に赤ちゃん天使が5天使ほどひっついています。
しかしよく見るとこれは水子(子供)たちが地蔵菩薩に助けをもとめている様子を表現したものでしょう。幼児の頃に落命してしまうと三途の川を渡れずに地獄の餓鬼の奴隷になると言われます。そんな水子たちを救える存在が地蔵菩薩です。
地蔵菩薩は現世(現代社会)における釈迦のような存在でもあり、救われない子供たちを極楽浄土へ導くとも言われます。この作者はきっと地蔵菩薩が水子たちを救いかけている、もしくは水子たちが地蔵菩薩に助けを求めている様子を像として表現したのでしょう。
お地蔵さんがたくさん!
本堂を向かい見て左側には、正面吹き放ちの覆屋が建てられていて、内部にはお地蔵さんが並んでいます。
- 加頭観世音菩薩
- 加頭地蔵尊
- おやす地蔵尊
- 目白地蔵尊
中でも特に上述した加頭地蔵が有名です。加頭地蔵は右から2番目のお地蔵さんです。リストラに怯えて眠れないサラリーマンやOLの方は忘れずに手を合わせてお帰りください。
鎮護堂の開門・閉門時間(営業時間)
鎮護堂は浅草寺子院ですが、浅草寺本体とは営業時間、つまり開門、閉門時間が異なりますのでご注意ください。
- 境内に入れる時間:6時〜17時まで
- お守りの授与(寺務所がオープンしている時間):9時〜17時まで
鎮護堂の御朱印授与について
鎮護堂では御朱印を授与しておられません。ただし、浅草寺には御朱印があります。
浅草寺・鎮護堂の場所(地図)
鎮護堂は雷門から仲見世を抜けて、宝蔵門の手前の「こども図書館」の奥、「伝法院」の真隣りにあります。
雷門から仲見世通りをまっすぐ進み、左に曲がれば伝法院通りに出ます。非公開である伝法院の鎖された扉を通り過ぎると赤い門のお堂が見えてきます。
これが「鎮護堂」です。
混雑を回避したい方は、仲見世通りを避けてオレンジ色っぽい道をした「オレンジ通り」を直進すると突き当たりに伝法院の開かずの扉が見えます。その左側に鎮護堂の赤い門が見えています。(上の写真参照)
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