浅草寺🕸「二尊仏」
造立年
- 1687年(貞享4年)
像高
- 約2.4m
- 台座の高さ:約2.1m
- 台座を含めた総高:約4.5m
基壇の石組みの大きさ
- 長さ:約12m
- 横幅:約6m
材質
- 銅製
- 鍍金加工
作者
- 太田久右衛門正儀(仏師)
「二尊仏」の名前の由来と別名
雷門から、仲見世を通り宝蔵門へ向かう途中、ちょうど宝蔵門の右手前の辺りに「2体の仏像」があります。
これを「二尊仏」と書き、「にそんぶつ」と読みます。
左で合掌しているのが「勢至(せいし)菩薩坐像」。
右で手をあげて、何かを持っているのが「観音菩薩坐像」です。
お堂も屋根も無く、屋外に安置されたこの仏像は、雨の日も雪の日もその体を濡らしてしまうので、別称「濡れ仏」とも呼ばれています。
雨風にさらされて、年々その肌の色を変えていく様がまるで生きておられるようにも感じられます。
そんな姿も人々の信仰を集める理由の1つとなっているのでしょう。
江戸名所図会の巻六、開陽之部の「金竜山浅草寺」、延宝年中(一六七三から八一)の江戸絵図には、現在、二尊仏がある場所は「空地」と記されていることから、観音像・勢至像の銅像のみありて「堂社なし」と記されていまする。
二尊仏と仏師・太田正儀
二尊仏の高さは像高約2.4メートルで下の蓮台も含めると約4.5メートルにもなります。
二尊仏は、1687年(貞享4年/江戸時代)に造立された金銅の仏像(銅製・鍍金加工)で、江戸、神田鍋町の仏師・太田正儀(おおたまさのり)、「通称・太田久衛門」が造ったものです。
実は、太田正儀の造った仏像は浅草寺だけではなく、関東にいくつか残っているようです。
その中でも特に有名なのが「巣鴨の地蔵(東京都豊島区巣鴨・真性寺)」です。
他にも、「江戸六地蔵」と呼ばれる仏像のうちの5つが太田正儀の作品です。
二尊仏が造立された理由
江戸の日本橋伊勢町の米問屋・成井家に奉公していた群馬県舘林藩出身の高瀬善兵衛(たかせぜんべえ)という人物がいました。
高瀬善兵衛は奉公していたにも関わらず、「成井家の主人にお世話になった」と言う感謝の意から二尊仏を造立します。
二尊仏のうちの1尊である「観音菩薩像」は主人であった成井善三郎を弔うために造立されました。
一方、勢至菩薩像の方は、智恵の光で人々を照らし続けるという菩薩様であり、善兵衛の「子供たちの未来」と「米問屋の未来」、「末代までの繁栄」を願って造立されました。
仏像を造立した善兵衛の高瀬家はその後、船にまつわる商売をはじめ「利根川の水は尽きたとしても、高瀬の財産は尽きることがない」と言われるほどの繁栄をみせます。
一方、米問屋の成井家は、その4、5代あとに没落していったようです。
自分自身の信仰心がなければ、あまりご利益がないのでしょうか。
誰かに繁栄を願ってもらう、まさに「他力本願では効力がない」ということなのでしょう。
二尊仏の台座の刻銘
観音菩薩像前手水鉢刻銘
安永六 丁 酉 三月日
再興之東上野國也楽部
大久保村施工
高瀬仙右衛門武州足立郡 千住
願主
高瀬奥右衛門直元
この刻銘の内容によれば、この観音坐像は東上野國也楽部 大久保村の「高瀬奥右衛門直元」という人物が、1777年(安永6年)に願主(造立を発願した)となり、同じ東上野國也楽部 大久保村の高瀬仙右衛門が施工(造立)したことになり申す。
おそらく本像は高瀬善兵衛の子孫(高瀬奥右衛門直元)が発願して、同じ一門の高瀬仙右衛門が制作にあたったことになりまする。
勢至菩薩像前手水鉢の刻銘
貞享四 丁 卯 天八月十九日
東上野國
邑楽群館林大久保村願主
高瀬善兵衛直房
この刻銘の内容によれば、この勢至菩薩坐像は東上野國 邑楽部 大久保村の「高瀬善兵衛直房」という人物が、1687年(貞享4)8月19日に発願したことになりまする。
90年もの開きがあるのが驚きであると共に、高瀬家がその後も衰退することなく、代々、継承されていた背景が浮かんできます。
浅草寺・二尊仏の場所(地図)
宝蔵門の向かって右手前、久米平内堂の真後ろ、弁天堂のちかくに位置します。
浅草寺本堂からの所要時間・距離
- 所要時間:約2分
- 距離:約180m
久米平内堂については下記ページにてご紹介しています。
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