浅草・浅草寺「駒形堂」
創建年
- 942年(天慶5年)※平安時代
※浅草縁起によれば628年(推古天皇三十六年)3月18日に観音(浅草寺本堂の絶対秘仏の聖観音像)が示現し、はじめて上陸した場所に建てられたのが、この駒形堂とされる。
再建年
- 1703年(元禄16年)
- 1742年(寛保2年)
- 1933年(昭和8年)
- 2003年(平成15年)
建築様式(造り)
- 方形造
- 土蔵造り
- 鉄筋コンクリート造
屋根の造り
- 本瓦葺き
御本尊
- 馬頭観音
法要
- (御本尊・馬頭観音の)縁日法要(毎月19日)
- 4月19日(供養会)※駒形堂の御本尊の縁日(午前10時〜)
- 大祭法楽
- 三社祭「船祭礼」
浅草寺・駒形堂の読み方
「駒形堂」は「こまかたどう」と読みます。
”こまがた”でも間違いではありませんが、正式には”こまかた”と、”が”ではなく”か”に変えて読むのが正しいようです。
”駒形”の名前の由来
駒形堂の名前の由来は不明のようです。ただ、以下のような説もあるようです。
馬の蹄(ひづめ)の跡が「駒の形」をしていたから
かつてこの駒形堂の場所には「浅草寺の総門(現在の雷門のこと)」が建っていたとされる説があり、このとき門の前に馬を繋いでおくための木柱が数本、立てられていたようです。
馬は主人が参拝から戻るまでの間、木柱の前で待つわけですが、雨が降ると地面がぬかるんで馬の蹄の跡が駒の形に見えたそうです。
その後、総門が移設される形で新たにお堂が造営されることになるわけですが、この時、前述の由来が発端となり、お堂の名前も「”駒形”堂」になったとされる説です。
御本尊「馬頭観音」にまつわる説
駒形堂の御本尊は「馬頭観音」と言うことで、創建以降、「馬の形した土人形」などの「作り物」を奉納する風習があったようです。
この”馬の形”が時代を経る過程で訛って、「馬の形→駒の形→駒形」もしくは「馬の形→馬形→駒形」になったと言う説です。
この説は浅草寺の貫首(住職)が述べられた説であることから、公式には「由来は不詳」としながらも浅草寺では馬頭観音にまつわる説が代々、受け継がれているようです。
浅草寺・駒形堂の歴史・由来
浅草寺を参拝する前に、ぜひ訪れて欲しい場所があります。
その場所こそが、隅田川の駒形橋の袂(たもと)にある朱塗りのお堂「駒形堂」です。
駒形堂は浅草寺本堂から少し離れた場所に位置しますが、かつては浅草寺参拝における起点ともなった場所です。
駒形堂の創建年
942年の平公雅創建説
この駒形堂は942年(天慶5年/平安時代)に平家の武将「平公雅(たいらのきんまさ)」によって建てられたとされています。
建てられた理由は定かではありませんが、「円仁(えんにん/=第3代天台座主。 慈覚大師(じかくだいし))」が造立したとされる「馬頭観音」を祀るために建てられたとも云われます。
駒形堂が浅草寺の起源とされる説
浅草寺の御本尊「聖観世音菩薩」が隅田川から現出した翌日、10人の草刈り童子たち(檜前兄弟/ひのくまきょうだい)が、藜(あかざ)という草で質素な草堂を建てたと伝えられており、これが本当の浅草寺の起源だとされています。
以後、草堂は場所を移されるのですが、その草堂の跡地に現在の駒形堂が建立されたと伝えられています。
その後、上述した942年に平公雅によって創建ではなく、「再建」されたという説です。
浅草縁起が伝える浅草寺の創建説
628年(推古天皇36年)3月18日の早朝、檜前浜成(ひのくまのはまなり)・竹成(たけなり)兄弟が江戸浦(現在の隅田川)で漁をしている最中、聖観世音菩薩像が網にかかったとのこと。
この時、兄弟が観音像を荷揚げした場所こそが現在の駒形堂が建つ場所とされている。浅草寺の起源は駒形堂とも云われることがあるが、この逸話に基づいたもの。オホ
兄弟たちは早々にこの像を兄弟たちの主人である土師中知(はじのなかとも/”土師真中知(はじのまなかち)”とも呼ばれる)に見せ、霊験を感じた土師中知は急遽、ド頭を丸めて出家し、自宅を寺へと改造し、聖観世音菩薩像を祀るのです。
つまり、これが浅草寺の始まりという説です。
その後大化元年(645年)、勝海という僧侶が観音の夢告により、浅草を訪れ、土師中知の自宅(寺)を本格的に寺とするべく、整備します。この時に観音の夢告どおりに本尊を秘仏と定めてい‥‥申す。
檜前が網で引き上げた観音像は像高1寸8分(約5.5センチ)の金色の像だったようですが、なにせ現今に至るまで公開されたことがない秘仏のため、実体は不明。
さらに星霜経て、上述した942年になると、将門の乱によって荒廃していた金龍山浅草寺を見かねて、平公雅が円仁(慈覚大師)が手彫りしたとされる馬頭観音像を奉安すべく、御堂を建立。これが駒形堂の起源という説です。
駒形堂は時代を経る過程で正面の向きが変えられている
実は創建当初の駒形堂は隅田川に面して造営され、正面が東を向けて建てられていたようですが、1703年(元禄16年)に再建が執り行われた際に、今度は正面を南へ向けて再建されています。
この事実は1720年に狩野派の絵師・菱川師宣によって描かれた「江戸風俗図巻」に、その当時の駒形堂が隅田川に面してではなく、南面に建てられている様子が描かれており、この画像が根拠になっています。」
しかし1732年(享保17年)と1738年(元文3年)に火災に見舞われ焼亡します。その後、1742年(寛保2年)に再建が執り行われていますが、この再建によって今度は西向きに造営されており、つまりはこれが現在見ることのできる駒形堂の姿となります。
この事実は江戸時代を代表する浮世絵の絵師・歌川広重、歌川国芳(くによし)らの浮世絵に描かれています。隅田川の河岸にたくさんの舟が停まり、朝早くから参拝の客であふれている姿が描写されており、この片隅に駒形堂が描かれています。
⬆️歌川広重作「江戸名所百景」(宝珠が屋根に付いたお堂が駒形堂)
駒形堂の向きが変えられた理由
時代を経る過程で駒形堂の向きが変えられた理由は定かではありませんが、この駒形堂を含めた付近周辺は渡し船以外にも船宿が軒を連ねるなど、人の往来が非常に盛んな場所であったことから、その当時の人々の考えや思想によって向きが変更されたのだと考えられます。
なお、かつて渡し船が盛んに行き交っていた時代、この駒形堂が浅草寺参拝におけるスタート地点だったようです。
すなわち、この駒形堂へお参りしてから浅草寺へ詣でるといった一種の風習のようなものが存在したようです。
実際に人の往来が盛んだったことを証明するかのように、浅草寺の総門(現在の雷門)がかつて現在の駒形堂が建つ場所付近に建てられていたそうです。
総門が駒形堂近くに建てられた理由はご推察のとおり、かつては駒形堂が、浅草寺参拝のスタート地点=浅草寺境内への入口とされていたからです。
関東大震災で倒壊し以降は鉄筋造りへ
駒形堂は皮肉にも火事とは縁深いお堂とも例えることができ、創建以降、度々、火事や類焼によって焼亡していますが、1923年(大正12年)に起こった関東大震災の際には、跡形も残さないほど無残に倒壊してしまい、その後、1933年(昭和8年)に以前の堂舎を復元する形で鉄筋コンクリート造りで再建されることになります。
よって、現在見ることできる駒形堂の姿は2003年(平成15年)に建てられたものです。
宝形造りの屋根が据えられ、四辺の各辺を3間土蔵造りで造営し、もう2度と倒壊しないようにとの熱き願いを込めるかのように鉄筋コンクリートで再建されています。アチっ!
「檜前(ひのくま)」の名前の由来
「檜前(ひのくま)」というのは、姓(名前)ではなく、上古時代の浅草界隈の地名とされています。
つまり、檜前と呼ばれた浅草に住んでいた兄弟だった経緯から、後世で「檜前」と呼ばれるようになったということです。
大宝元年(701年/飛鳥時代)、大宝律令で「厩牧令」が発令され、全国に国営の牛馬を育てる牧場(官牧)が39ヶ所、皇室に馬を奉献するために、天皇の勅命により32ヶ所の牧場(勅旨牧)が置かれています。
東京には「檜前の馬牧」「浮嶋の牛牧」「神崎の牛牧」が置かれたと記されており、「檜前の馬牧」は、浅草に置かれたものだと推察されてい‥‥申す。
東京市史稿では、檜前の馬牧は浅草付近に置かれ、「浮嶋の牛牧」は本所、「神崎の牛牧」は牛込に置かれたと推定されてい‥‥申す。
奈良の飛鳥(現在の明日香村)にも渡来系氏族「東漢氏(やまとのあやうじ)」の氏族として「檜隈氏(ひのくまうじ)」の名前が見えることから、浅草の檜前との関連性が比定される。
仮説としては、この当時、奈良の飛鳥が東漢氏の本拠地であったことから、檜前兄弟は明日香村出身だった可能性もあり、朝廷の厩牧令(くもくりょう)によって奈良から浅草の馬牧へ送り込まれたという説も浮上し申す。
「土師」の名前の由来
檜前兄弟が菩薩像を主人である「土師」へ渡したとされていますが、「土師」という名前は元来、野見宿禰(のみのすくね)が葬祭の折、土偶や埴輪を作る職を担ったことにより、朝廷から下賜された姓です。
野見宿禰と言えば、両国にも野見宿禰を祀る神社があるように古来、相撲の神という認識が強いのですが、ことこの件に関しては埴輪作りに関連した姓であることが明らかです。
土師氏は全国に埴輪づくりを伝えるべく、移住していき、この浅草にも住み着くようになったと考えられています。
浅草神社や浅草寺でもこの故事に倣い、ご奉仕すべく、代々の神主や住職は土師氏の氏族、もしくは浅草神社では「土師」の姓を名乗っています。
浅草寺・駒形堂のご本尊「馬頭観世音菩薩」
ご本尊の馬頭観世音菩薩は木彫りの立像です。
高さ28.8㎝で、三面六臂(さんめんろっぴ)・・つまりは、お顔が3つに、腕が6本の観音様です。
馬頭観世音は馬を頭に乗せた姿をしており、動物救済に御利益があるとされています。
ご本尊が発見された川ですから、その川に棲む動物たちを救済しておられるのでしょう。
実際に、この川ではご本尊が発見されてから、漁が禁止されています。
また、馬はその昔、移動手段だったことから、旅行の安全祈願にご利益のある観音様でもあります。
浅草寺へ参拝する前に「駒形堂」へお参りし、無事に浅草参拝を終えたいものですね。
馬頭観音を見れる?
御本尊・馬頭観音は格子のガラス扉の奥のお厨子(ずし)の中に安置されていますので、格子ガラスの隙間から拝する格好になります。
ただし、お厨子の中に安置されていますのでご尊容を拝することはできなくなっています。
しかしながら、縁日である毎月19日には扉が開扉されますので、堂内へ上がって直にご尊容を拝することができます。
駒形堂の縁日
馬頭観音の縁日
- 毎月19日
- 内容:平時は閉扉されている御堂の扉が開扉され、ご本尊「馬頭観世音菩薩」を真近で拝することができる。
大祭法楽
- 毎年4月19日
- 内容:10:00より斎行。御堂の扉が開扉され、馬頭観世音菩薩を間近で拝観できる。….”間近”だけに”マジか”!
法要後には法話も聞けることがある。
駒形堂で御朱印は授与されている?
駒形堂には御朱印はありません。ただ、浅草寺境内の影向堂にて浅草寺で受けられる御朱印を授与されています。
浅草寺の御朱印の種類や授与時間については下記ページをご参照ください。
駒形堂の見どころ
戒殺碑(かいさつひ)【都指定文化財】
- 建立年:1680年頃〜1704年頃 ※初代(現在の石碑は2代目で1775年に造立されたもの)
- 高さ:約183.5㎝
- 横幅:約61㎝
- 材質:安山岩
駒形堂の境内には「戒殺碑(かいさつひ)」と呼ばれる石碑が建てられています。
この石碑は、冒頭でお話ししたように、かつて浅草寺の御本尊が現出したこの場所を「縁起が良い場所=聖地」として定め、隅田川における魚類を主とした生物の殺生を禁じたことを誇示した石碑です。
この命令を下したのは「生類憐れみの令」でお馴染みの5代目将軍・綱吉さんです。
当初は、この駒形堂の場所を中心とし、およそ東京ドーム3個分ほどの面積がその対象地域とされたようです。
この御触れが公布された翌年に、当時の浅草寺の住職(僧正)・宣存が、その記念にこの石碑を建てたと伝えられています。
綱吉さんの治世の時代となれば1680年頃〜1704年頃の間に建てられた石碑ということになりますので、今から約400年前に建てられた石碑ということになりますが、残念ながらこの石碑は1759年に再造されたものです。
ただ、関東大震災のときには地中に埋もれたそうで、それを1929年(昭和2年)に駒形堂の再建が開始されるタイミングで掘り出したとのこと。
手水舎(水盤)
賽物と書かれたお賽銭箱
駒形堂のお賽銭箱には「賽物」と書かれています。
賽物とは、「さいもつ」と読み、意味合いとしては「お礼参りの際にお供えする供物のこと」と解されまする。
この駒形堂に奉安される馬頭観音は古来、篤い信仰が寄せられ、縁日となる毎月19日には供物が捧げられまする。
「賽物」とは、そんな信仰の度合いを示すかのような美しい言葉ではアーリマせんか。美しいか?
駒形公園
忘れてはいけないのが、この駒形堂は駒形公園の敷地内に建っているということです。(厳密には駒形堂の境内が公園として開放されている)
ただ、通常の遊具のある公園とは異なり、園内には何もありんせん。ピッこいベンチが1つ設置されているだけでおます。
駒形堂と金のウンコとスカイツリーのコントラスト!
この駒形堂は隅田川の畔に建てられているため、その後方に位置する金のウンチョ、ならびにさらにその後方に位置する東京スカイツリーとが見事に背景として映り込みます。
この状態になると登場するのが‥‥‥じゃじゃん!
カメラ〜 ‥‥です!
駒形堂と金のウンコ、そしてスカイツリー‥‥‥見事なフォトジェニックポイントじゃアーリませんか!
駒形堂へ訪れた場合はぜひ!カメラにお腹いっぱい収めて帰っておくんなせぇ。…「お腹いっぱい」とか、ウケ狙いでやたらと持ち出すヤツ、80%水虫
駒形堂の営業時間(開門閉門時間)
駒形堂は浅草寺に所属するお堂ですが、毎日、町内会の会長さんが鉄扉を開閉されています。この鉄扉はお堂の鉄扉なので境内には自由に入れます。(入堂は19日のみ午前10時〜)
- 営業時間(開門閉門時間):午前8時00〜8時30分の間 〜17時まで
駒形堂が建つ、駒形公園には24時間入れますので駒形堂も24時間お外からお参りできまする。
浅草寺・駒形堂の場所(地図)
都営・浅草線・浅草駅の付近、駒形橋のたもとに位置します。駒形堂から雷門までは歩いて4分ほどです。
浅草寺までは、徒歩9分、距離にして約800mです。
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