浅草寺の弁天山と弁天山児童公園と石碑一覧(松尾芭蕉など)

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浅草・浅草寺「弁天山」

浅草寺の南東にある小さな丘「弁天山」

宝蔵門の南東には「弁天山(べんてんやま)」と呼ばれる小高い丘があります。

東京メトロの浅草駅から「馬道通り」をまっすぐ行くと歩いて5分ほどの所で到着します。

周りを石垣で組まれた弁天山は、背の高い木がいくつかあり、小さな神社の境内のような雰囲気です。

弁天山には、朱塗りのお堂「弁天堂」が建っており、そこではめずらしい白髪の「老女弁財天」がまつられています。

※浅草寺の弁天堂に関しては、当サイトの以下の別記事でご案内しております。




浅草寺・弁天山「鐘楼」

創建年

  • 1692年
再建年

  • 1950年
建築様式(造り)

  • 入母屋造
屋根の造り

  • 本瓦葺
鐘の大きさ

  • 鐘高:2.12m
  • 直径:1.16m
発願者

  • 徳川綱吉(江戸幕府5代目将軍)

今日も鳴り続ける「時の鐘」

弁天堂の手前には大きな鐘楼があります。

この鐘が作られたのは、江戸幕府の5代将軍である徳川綱吉の頃、1692年(元禄5年)のことです。

鐘の高さ2.12メートル、鐘の口の直径は1.16メートルの大きな鐘です。

浅草寺・弁天山「鐘楼」東京大空襲の時に戦火にあいますが、この鐘は焼け残り江戸時代に作られてからずっと同じ姿をしています。

入母屋造り、瓦葺きの屋根をもつ鐘楼は、残念ながらこの空襲で焼けてしまい、1950年(昭和25年)5月に建て替えられています。

江戸時代に「時の鐘」と呼ばれるものは、江戸の町に9か所設置されていました。

本石町、上野、本所横川町、目白など、それぞれの場所で時を知らせる鐘が突かれていたのです。

花の雲 鐘は上野か 浅草か

これは、松尾芭蕉が詠んだ名句です。

桜の季節に、隅田川沿いを歩いていると、時の鐘が聞こえてきます。

これはいったいどこの鐘の音でしょうか。

上野の寛永寺の時の鐘か、浅草の浅草寺の鐘かどちらかであろう、と芭蕉は思いをはせたのです。

同じ台東区である、上野と浅草ですが、現在はたくさんの建築物が建ち、都会の喧騒で鐘の音も遠くまでは響かなくなっています。

それでも、毎朝6時に浅草寺のお坊さんがこの鐘を鳴らしているのです。

浅草寺・弁天山に建つ数あまたの石碑群一覧

松尾芭蕉の句碑

境内には俳聖と呼ばれた松尾芭蕉の句碑があります。

この句碑は、1796年(寛政8年)の松尾芭蕉103回忌を記念して建立されたものです。

かつては、浅草寺本堂の北西に建つ、銭塚地蔵尊のあたりにあったのですが、戦後に現在地へ移されています。

碑文:『くわんをんの いらか見やりつ 花の雲』

八十三歳の翁「泰松堂」の書に加え、芭蕉の絵を得意とした佐脇嵩雪の描いた芭蕉像も刻まれていますが、風化が進み大変、見にくくなっています。

案内版の内容

俳諧紀行文『奥の細道』などを著した松尾芭蕉は、寛永21年(1644年)伊賀上野(現在、三重県上野市)に生まれました。

芭蕉と言う俳号は、深川の小名木川ほとりの俳諧の道場『泊船堂』に門人が芭蕉一枚を植えたこといん由来します。
独自の蕉風を開き『俳聖芭蕉』の異名をとった松尾芭蕉は、元禄七年(1694年)10月12日、大坂の旅舎で51年の生涯を閉じました。
この句碑は寛政8年(1796年)10月12日、芭蕉の103回忌に建立され、元は浅草寺本堂の北西、
銭塚不動の付近にありましたが、戦後この地に移建されました。
八十三歳翁泰松堂の書に加えて、芭蕉のスケッチを得意とした、佐脇嵩雪が描いた芭蕉の座像が線刻してありますが、二百年の風雪を経て、碑石も欠損し、碑面の判読も困難となっております。
奥山庭園にある『三匠句碑』(花の雲 鐘は上野か浅草か)と共に、奇しくも『花の雲』と言う季語が詠みこまれております。

平成二年四月吉日 浅草観光連盟




添田唖蝉坊の碑・添田知道の筆塚

「ノンキ節」を流行らせた演歌家・「添田唖蝉坊(そえだあぜんぼう)」の石碑と、添田唖蝉坊の長男にあたる「添田知道(そえだともみち)の筆塚」です。

昭和31年に浅草の会の東京作家クラブの発願にて造立され、奉納された石碑です。

案内板の内容

添田唖蝉坊 本名 平吉
筆名は唖蝉坊のほか不知山人、のむき山人、凡人など。
神奈川県大磯に生まれる。昭和十九年二月八日殉。
享年七十三歳。
明治二十年代の壮士節の世界に入り、のち演歌の作詞、作曲、演奏に従事。

作品は「四季の歌」「ストライキ節」「ラッパ節」「ああ金の世」「金色夜叉の歌」「むらさき節」「奈良丸くづし」「マックロ節」「青島節」「ノンキ節」「生活戦線異状あり」など。著書に「浅草底流記」「唖蝉坊流生記」「流行歌明治大正正史」ほか。

添田知道 唖蝉坊の長男。東京出身。昭和五十五年三月十八日殉。享年七十七歳。父・啞蝉坊と共に変化の作詞。作曲に従事した後作家活動に入る。
筆名は知道のほか、さっき、吐蒙。演歌作品に「東京節」「復興節」「ストトン節」など。
著書に新潮文芸賞受賞の長編小説「教育者」「利根川随歩」「演歌の明治大正史」などがある。

聖観音真言梵字の石碑

上部に聖観音を示す「サの刻字」、中央部に「オン アロリ キャ ソワカ ボロン」、最下部に「阿弥陀如来を示すキリーク(梵字)」が刻字された石碑です。

1837年(天保8年)に吉原仲の町の山口巴屋の「とえ」なる人物が奉納した石碑です。

都々逸塚の石碑

「明治百年(明治の元号制定から100周年を記念して式典が開催された)」を記念して1968年(昭和43年)に亀屋忠兵衛が奉納。

鳩塚

かつて境内にあった「鳩豆屋」が、落命した「鳩」たちを弔うために建てた「鳩塚」です。弁天堂正面の階段の脇にひっそりと建っています。

扇の石碑

1964年(昭和39年)も花柳徳太郎氏が造立して奉納した石碑です。舞用に使用するための少し大きめサイズの扇「舞扇」の供養塚になります。

浅草・浅草寺「弁天山」の場所(地図)

浅草寺の弁天山は、宝蔵門から向かって南東へ歩いた先に見えてきます。山とは言っても土を盛って山になったような感じです。

周囲木々に囲まれており、弁天堂と鐘楼を覆い囲んでいます。

道路を跨ぎますので、浅草寺の境内から少し出たような感じになります。

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