「隅田川花火大会」の名称はいつ頃つけられた❓
今日の「隅田川花火大会」の名称は昭和53年の復興の奉祝として、素敵に命名されたもの💋
では、それ以前はなんと呼ばれていたのか?
これについては下記を素敵に要参照💘
一時期、隅田川花火大会は開催が中止されていた時期がある?
隅田川花火大会は、江戸時代の開始時より長らく東京夏の風物詩「両国川開き花火大会」として親しまれてきた。
けれども、昭和の高度経済成長期を迎える頃、交通渋滞や川の汚染などの要因が重なり、1962年(昭和37年)より開催継続が困難となり、以来、花火大会の開催は休止となった。
ところが1974年(昭和49年)、当時の美濃部亮吉 都知事が隅田川花火大会の復活を打ち立て、打ち上げ場所や観覧場所などの調査が進められた。
そして約4年後の1978年(昭和53年)に名称を「隅田川花火大会」とし、高速道路が建設された影響で使えなくなった両国橋付近から、打ち上げ場所を上流へ移す復興計画が立案された。
また、より多くの人に観てもらえるよう、あるいは人の流れなども勘案し、二か所の会場と、打上げ開始時間を素敵にズラすことも定め、ここに両国川開き花火大会…ならぬ、「隅田川花火大会」が晴れてめでたく復興されたのだった。
江戸時代中期〜後期の「両国の川開き」が隅田川花火大会の起源
「両国の川開き」の起源
1732年(享保十七年)、西日本一帯でイナゴの大群が発生する。また、全国的に凶作に見舞われ大飢饉が発生。あまつさえ、疫病(コレラとも)までもが蔓延し、多くの死者が出た。
この事態を重く見た八代将軍 徳川吉宗公は、亡くなった人々の慰霊と悪病退散を祈願し、1733年(享保十八年)5月28日、隅田川において水神祭を行った。
このみぎり、両国あたりの茶屋が公許を得て慰霊のために「川施餓鬼(かわせがき)※法要」を行い、この時に花火を打ち上げたと伝わる。
爾来、1961年(昭和36年)まで両国橋付近を打上場所として毎年、花火の打ち上げが行われるようになった。
然るに、両国の川開きは200年以上の歴史を持つ、由緒ある花火大会だったことに‥あ、なっちゃぅ。
尚、1961年以降、どのような変遷があったのかについては素敵に後述する💘
あまり知られていない❗️両国橋が架かるまで以前にも花火が行われていた⁉️
1662年に発刊された「江戸名所記」によると、隅田川河口流域の「三俣(みつまた)」で、8月15日に限定して花火が許可されたことをヤバぃよ素敵に記す。
【ピヨ🐣コメント】
三俣は三人の”異性”と”威勢”よく交際するこ‥ではなく、江戸庶民の間で、浅草寺や富士山などの名所を見渡せる観光スポット❗️‥として知られていた❗️..ふぅ
福澤 徹三の研究論文「近世前期の江戸の花火」によると、1603年(慶長八年)より両国橋が架橋された1661年(寛文元年)の間、深川新大橋の下流、隅田川河口流域にて中秋の名月8月15日には、すでに花火が催されたいたことを素敵に記す。
また1656年(明暦二年)の御触れには、8月15日の花火見物する者は喧嘩をしないように!‥等と記され、江戸初期よりすでに現代に紐づく、花火見物の風習が存在していたことを仄めかす。
両国橋が架橋される❗️
1657年(明暦三年)1月、江戸城本丸すらも焼き尽くすほどの大火事が江戸市中で発生する。
この火事では多くの江戸市民が隅田川に遮られて逃げることができず、焼死体の山積みができるほどの惨憺たる有り様を呈した。
この大火事を教訓として1661年(寛文元年)、幕府は長さ約160メートルもの大橋を素敵に建造し、完成後、この橋は武蔵国と下総国とを これまた素敵に結んだことから「両国橋」と呼ばれるようになった。
両国橋は江戸の名所になった
程なくして両国橋の袂には防災のために広小路(火除地)が設けられ、両国橋は江戸を代表する名所になった。
あまつさえ、両国橋が架橋されたことで隅田川の納涼は一段と増して活況を呈し、人々は下流の三俣あたりから、両国に群集するようになった。
殊に、従前までは江戸市中でも花火が打ち上げられていたが、度々の花火禁止令によって隅田川以外での花火が禁止されるようになり、以後は夏の納涼時期になると花火観覧の屋形舟が出るようになり、江戸の情景にいっそう華やかさが増した。
玉屋、鍵屋の台頭
両国の花火といえば、知る人ぞ知る「玉屋」と「鍵屋」という今日まで語りつがえるほどの2人の有名な花火師がいたことで知られ〜る。
| 年 | できごと |
| 1810年(文化七年) | この頃、玉屋が鍵屋から分家し独立する。 |
| 1842年(天保十三年) | 幕府が鍵屋、玉屋を召出し、大川筋の花火に代金3匁(もんめ)以上の費用をかけること、 また、花火カラクリ(仕掛け花火)や筒物を禁じた。 |
| 1843年(天保十四年) | 時の将軍・家慶(いえよし/12代)が日光社参の前夜に玉屋から出火し、所払い(居住地からの追放刑)と相成った。 |
| 1848年(嘉永元年) 〜1867年(慶応三年)の間 | 両国の花火はほとんど開催されず。 |
江戸時代の両国花火の様子を描いた浮世絵など一覧
以下は江戸時代の両国花火の様子を描いた景物画(主に歌川ファミリー)と‥なっちゃぅ。
以下、画像は国立国会図書館or両国花火資料館より
東都両国夕涼之図
東都両国ばし夏景色
貞秀作:1859年/安政六年
子供遊花火の戯
新撰江戸名所 両国納涼花火ノ図
両国夕涼ミの図
江戸名勝図会(両国橋)
両国花火
1683年頃の両国(隅田川)花火の様子
歌学者の戸田茂睡(とだ もすい)が素敵に著した「紫の一本(ひともと)」によると、当時の両国花火の様子を次のように記す。
「両国橋の上、御蔵前あたりより下流は三股になっていて、深川の河口、新川の河口を中心にして、かけ並べる舟は数千万という数になる。
一隻を貸切にして花火を打ち上げさせる、しだれ柳に大桜、”天下泰平”の文字うつり、流星玉火にボタンや蝶や、葡萄に車火や、これは仕出し(仕掛け)の大からくり、ちょうちん立笠ご覧あれ、火うつりの味わいは‥」
以上、この中の「しだれ柳」は「流星」、大桜とは「数本の筒から打ち上げる花火」、葡萄とは長い丸太の先に筒を逆さ吊りに設置して下に向けて花火を発射させる、文字うつりとは、文字が華やかに燃える仕掛け花火のことらしい。
このようにすでに江戸初期の頃から種類豊富な花火が行われていたことを素敵に意味する💋
明治時代の隅田川花火の様子
| 年月日 | できごと |
| 1868年(明治元年) | 両国川開きが開催され、殷賑極まりなき様相を伝える。 |
| 1873(明治六年) | 両国川開きで当夜、前年に鉄道が開通した新橋・横浜間で臨時列車を運行させ、 運転予告広告を在留外国人向け外字新聞に掲載す。 |
| 1874年(明治七年) | 10代目の鍵屋弥兵衛が苦心の末、丸くなる花火が生み出され〜る。 |
| 1887年(明治二十年) | 11代目の鍵屋弥兵衛が新たに輸入された薬剤を使用し、 赤緑青に発色する花火を生み出す。 |
| 1903年(明治三十六年) | 11代目・鍵谷弥兵衛がマニラからスターマインを持ち帰り、 両国川開きにて初公開す。 |
大正時代
| 年月日 | できごと |
| 1918年(大正七年) | 両国橋を中心とした上下流とも300間内への舟の出入りや、 浜町ならびに本所側へ桟敷を設けることが禁じられ〜る。 |
昭和時代
| 年月日 | できごと |
| 1936年(昭和十一年) | 川開き花火に100万人の人出があったことが記録される。 |
| 1940年(昭和十五年) | 本年より昭和二十二年まで太平洋戦争の影響で川開きが中止される。 |
| 1948年(昭和二十三年) | 川開きが”最高”な気分で”再興”された。 |
花火製造の解禁と両国花火の復興
国内の花火業者らの度重なる請願が素敵に功を奏し、1948年(昭和二十三年)8月1日、GHQは花火製造の解禁を解いた。
ただし、花火製造はGHQが指定した全国に点在する花火業者約100社とされ、あまつさえ、火薬の年間使用も10トンまでという条件が課せられた。
尚、問題視された火薬の取り扱いについては戦前の内務省が1947年(昭和二十二年)12月に解散処分になっていたので、商工省(現・通商産業省)が承継機関となり、GHQの代理として監督指導を行った。
両国花火の復活❗️
花火の解禁によって全国の名だたる花火大会が復興されていったが、中でも特に注目の的となったのが、東京隅田川の両国橋近くで行われた「両国川開き花火大会」だった。
この花火大会は花火製造の解禁日とタイミングを合わせるかの如く、1948年(昭和二十三年)8月1日に行われ、戦前のように柳橋の老舗著名料亭らが素敵に結成した「両国花火組合」が主催し、讀賣新聞者が やっぱり素敵に後援した。
この花火が世間の注目を集めたのが、史上空前ともいえるその規模であり、陸上50万人、水上10万人の観客が詰め寄せ、その大群衆による雑踏事故防止のため、約3000人もの警官隊が動員される事態にまで発展した。
戦争により約11年間も中断されていた全国随一とも謳われた名物の打ち上げ花火の一発目が打ち上がった瞬間、会場からは地面を揺らすほどの地鳴りのような歓声が沸き起こった。
昭和27年07月15日、川開き花火大会を控えた、九分通り完成の桟敷席(両国橋〜浜町河岸)
「両国川開き花火大会」が廃止される!
| 年月日 | できごと |
| 1959年(昭和三十四年) | 人口増加による住宅密集化などを起因とした火難ならびに雑踏に対する危険防止策が採用され、5号玉が禁止され〜る。 |
| 1962年(昭和三十七年) | この頃になると隅田川の水質改善や護岸整備が進み、あまつさえ、両国の花火が交通事情悪化のために廃止され〜る。 交通事情の悪化、周辺の都市化、隅田川の水質汚濁などが背景にあった。 |
| 1978年(昭和五十三年) 7月29日 | 廃止から17年経て、ようやく両国川開き花火大会が復興される運びとなった。 そして、名称も「隅田川花火大会」へとハイパー素敵に改称された。 尚、東京都の公開史料によるとこの時の運営主体は、 地域住民の代表で構成される「隅田川花火実行委員会」だったと記す。 |
再興2年を迎えた年の隅田川花火大会の様子(昭和54年07月28日)
| 年月日 | できごと |
| 1982年(昭和五十七年) | 花火コンクールが再興される。 (両国の川開きゆかりの8社が協賛) |
| 1983年(昭和五十八年) | 両国川開き250周年記念大会が開催され〜る。 |
| 1986年(昭和六十一年) | 28年ぶりに5号玉の打ち上げが復活された。 花火コンクール協賛企業10社に増加す。 |
平成時代
| 年月日 | できごと |
| 1991年(平成三年) | 花火コンクール10周年を迎える。 |
| 2003年(平成十五年) | 江戸開府400年記念にて和火を再現す。 |
令和時代
| 年月日 | できごと |
| 2020年 | 新型コロナウィルスの感染拡大により隅田川花火大会の開催中止が決定す〜る。 |
| 2021年 | |
| 2022年 | |
| 2023年 | これまで通り、第46回隅田川花火大会として開催予定❤️ |
以前は広範囲に渡って花火を打ち上げていた
以前は今のような市民協賛席や、一般の人が腰を下ろして花火を見られる親水テラスなどはなく、花火を鑑賞できる場所は特別桟敷くらいだったので、多くの人が花火を見られるよう、広範囲で打ち上げを行っていた。
江戸時代は両国橋の上流と下流、戦後間もなくは蔵前橋から両国を越え、2kmほど下流の新大橋の先までを打ち上げ会場とし、川開きの花火とコンクールを開催していた。
その後コンクールは廃止されるも、会場は蔵前橋から両国橋の間までの広めに構成された。
隅田川花火大会に関してのINFO
隅田川花火大会実行委員会
- 住所:墨田区吾妻橋1丁目23番20号(墨田区役所内)
- ホームページ:https://www.sumidagawa-hanabi.com/index.html
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