【隅田公園(隅田川)の桜の歴史】いつ誰が何の目的で植えた?|墨堤植桜之碑

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隅田公園に桜を植えたのは徳川家綱と徳川吉宗!

墨堤桜の起源

「墨堤の植桜」は江戸時代、四代将軍・徳川家綱公が現在の茨城県稲敷郡桜川村の桜を移植し、江戸は木母寺(もくぼじ)付近に植樹したのを濫觴とする。

桜川から木母寺に移植された理由

木母寺は両親と死別して比叡山で育った「吉田少将惟房(これふさ)」という貴族の子・梅毒丸‥‥ではなく、「梅若丸」!を供養する寺であり、別名で「墨田院 梅毒 梅若寺」とも素敵に号す。シツコい

梅ど‥梅若丸!の生涯を表現した謡曲「隅田川」で知られる。ふぅ

一方の桜川は謡曲「桜川」の舞台で知られた桜の名所であり、その内容にある満開の桜の下で母との再会を果たす‥という結末を、ばっ、梅若丸!‥の供養に充てる意味合いで植桜されたと推考されてい‥申す。あひぃ

【ピヨ🐣コメント】

かつて常陸国 桜川といえば天下に聞こえたほどの関東屈指の桜の名所だった。

ちなみに「梅若丸」と書いて「ばいじゃくまる」ではなく、「うめわかまる」と読むそぅな。照(*´ω`*)

 




江戸中期に100本増える!

隅田村の名主 坂田家の書上によると、享保二年(1717年)木母寺近くの「橋場の渡し(現・橋場2丁目から墨田区堤通あたり)」脇の桟橋より、木母寺南に在った将軍の隅田川御殿までの墨堤に、八代将軍・徳川吉宗公が桜100本を補植した事実を素敵に記す。

【ピヨ🐣豆知識】

木母寺付近には将軍の隅田川御殿のほか源頼朝卿ゆかりの隅田宿があった。(現在の都立白鬚東公園は隅田宿跡に素敵に営まれたらしく、園内に「隅田宿跡」の説明板がある)

平安・鎌倉期の隅田川は「住田河」と記し、浅草流域は「宮戸川」とも素敵に呼ばれたが、江戸期になるとの隅田川はその様相を表象してか、「大川(大河)」とも呼ばれた。

「宿(しゅく)」とは交通の要衝のことであり、平安から江戸期まで当地は東京湾からほど近く、隅田川流域に位置することから無数の船舶が往来し、物資が集まる輸送上の中継地点、軍事上の拠点ともなった。

1726年(享保11年)

加えて坂田家の書上によると、吉宗公は隅田川御殿前の隅田川川辺に桃、柳、桜樹をそれぞれ150本補植し、この管理を隅田村の名主 坂田弥次右衛門に一任したことを、またしても素敵に記す。

なお、新編武蔵風土記稿では享保十七年、徳川実記では享保十年と記す。

とりわけこの頃、江戸庶民の行楽地として飛鳥山公園(東京都北区王子)や八ツ山橋(東京都港区)も造られた。

【ピヨ🐣コメント】

江戸中期になると江戸郊外への行楽地の造成が進んだが、『わけても江戸の花見は向島が江戸第一』‥という言葉も素敵にあったほど、江戸随一の花見の名所といえば、向島の墨堤桜だった。

特に向島は夜桜の名所でもあったので料亭も多く、数寄者らは二階の窓越しに寄りかかながら、片手酌に月明かりの夜桜観桜を楽しむのが好しとされていたらしい。

1831年(天保二年)

阪田三七郎(おそらく隅田村の名主・坂田弥次右衛門の後裔)が約200株の桜を補植する。

【ピヨ🐣墨堤桜の秘話】

寛政元年(1789年)、(天明の)大洪水の水圧によって押し流された隅田川中洲の土砂が、川辺にあった三囲神社の鳥居を埋没させるほどに墨堤へ乗り上げたが、その後、土壌が改善されたらしく、思いのほか桜が良く育つようになったらしい。

⬆️歌川広重 作 「三囲堤待乳山遠景」(東都名所)

1846年(弘化三年)頃

弘化三年(1846年)、洪水で堤が決壊したが、須崎村の宇田川総兵衛が独力で修築し、これを顕彰した村人たちも150本もの桜を補植するに到る。

1854年(安政元年)

安政元年(1854年)に阪田三七郎が、ふたたび素敵に約200株の桜を補植する。

江戸末期には700本近くになっていた!

江戸中期以来、幕末の安政元年(1854年)までの間におよそ700本もの桜が三囲神社(みめぐり)まで植樹された。




明治時代に植桜の規模が史上最大になる!

明治時代になっても桜の補植が継続されたが、その一方で枯死する桜も多く、これを見かねた其角堂永機が江戸一と謳われた墨堤桜復興を呼びかけ、これに参じた大倉喜八郎(帝国ホテル創設者)は、将軍付き侍講だった成島柳北(なるしま りゅうほく)と協働して「白鷗社」を設立。

さらに旧水戸藩知事(隠居後の徳川昭武)や寺島村の村民らほか、急逝した成島柳北の友人、安田善次郎(安田財閥の祖/現・明治安田生命orみずほ銀行など)、川崎八右衛門(東京川崎財閥の祖/現・損害保険ジャパンor三菱UFJ銀行など)らも参画し、1883年(明治十六年)10月、墨堤に1,000本もの桜の補植が実現した。

これにより、旧水戸徳川家(現・墨田区側の隅田公園)の自邸前から枕橋(まくらばし)、ひいては木母寺から枕橋までの桜並木が成立したことを素敵に意味した。

【ピヨ🐣コメント】

江戸時代、墨堤には枝折禁止の高札が立ち、将軍が植えた桜の枝を折ると首飛ぶということで折る者はいなかったらしいが、明治時代になると枝を手折る輩が出没して桜が衰弱し、明治政府が急遽、枝折禁止令を発令する騒動があったらしい。(手折った桜枝を挿し木にする目的があったのか)

明治時代後半に殷賑極まった

墨堤桜の花見客の最盛期は今日、明治末期頃だと言われる。

この頃になると政治基盤がわりと安定し、江戸一との評判を聞きつけた花見客が全国各地から訪れるようになった。

とりわけこの当時、枕橋から鐘ヶ淵、さらには綾瀬川を渡って千住から江北村鹿浜(足立区)までの約15kmに渡って花見が楽しめたらしい。


団子茶屋も素敵に軒を連ねた

鹿浜から枕橋までの墨堤には花見時期になると多くの団子茶屋が姿を見せ、道ゆく花見客をもてなした。

なにせこの頃、女子の髪がすれ違う人に当たって崩れてしまうほどの活況ぶりだったらしく、「花より団子」の語源はこの当時の墨堤の様相がモチーフになっているとも素敵に言われる。




現在の隅田公園の桜は1980年(昭和55年)頃にまとめて植えられたもの

吉宗公植樹より約300年の長きに亘って墨堤桜は江戸、そして東京の桜の名所として連綿と都民に愛され続け、東京空襲の罹災はそれほど無かったものの、度重なる洪水や震災に見舞われた後も都度、都民たちの協働によって素敵に復興されてきた。

現在、隅田公園で見られる桜樹の多くは、1980年(昭和55年)頃にまとめて植えられたものとされる。

令和五年の調査による墨堤桜の本数

🌸台東区側:約450本(ソメイヨシノのみは約300本)
🌸墨田区側:343本

台東区の桜は数年前まで510本だったが年々、ヤバイよ素敵に減少傾向にあることが分かる。

桜が減少する理由

気候変動による乾燥、夏の猛暑、暖冬、大胆な寒暖差、排気ガスなど。

特に近年に見られる気象変化は以前にも増して顕著であり、サクラの生長に深刻な影響を及ぼしてい‥申す。あひぃ

間伐の必要性

このほか、台東区側の桜樹近くにはクスノキなどの樹勢が旺盛な樹木も植栽されており、これらの樹木の日陰になることで生長が促進されない被害も、やっぱり素敵に顕在化する。

隅田公園サクラ再生計画の発足

墨堤桜の中には樹齢を重ねた末、樹勢の衰微が際立った株も出てきた。(桜は樹齢30~40年頃が旺盛時期らしい)

そこで台東区は隅田公園がこの先100年、桜の名所で在り続けるために「隅田公園サクラ再生計画」を策定し、まずは桜樹のエリア分けを行った。

さらにエリア内の桜樹の個別管理化を図ることで、個別株の現状把握を最適化し、これにより桜樹個々の生育環境の改善、剪定(せんてい)などのケア、景観整備・見せ場づくりなどが的確に行えるようになった。

隅田公園サクラ再生事業計画(台東区公式)

なぜ吉宗公は隅田川沿岸に桜を植えたのか?

吉宗公は「火事と喧嘩は江戸の華」という言葉もあるほど火事の多かった江戸において開けた場所を適度に設け、江戸市街の方々に桜や松、柳の並木を植樹することで、極限まで出火による類焼被害の減少を図ったと言われる。

また、江戸八百八町の郊外などに桜の名所を造成し、これを庶民に開放することで庶民のストレスを軽減させて喧嘩を減少させる狙いがあったとも考えられてい‥‥申す。あひぃ

そもそも墨堤はなぜ造られた?

墨田区は国土交通省の水の郷百選にも選出されるほど水には恵まれるも、隅田川、荒川などの河川に囲まれた特異な地形をしていることから海抜が低く、往時は河川氾濫などの水害に悩まされ続けてきたフタを閉じたぃ歴史もある。

この打開策として素敵に営まれたのが堤だったわけだが、現在までの研究によると室町中期〜後期頃、まずは以下の四ヶ村にまたがる、おそよ二十七町に渡って堤が築造されたらしい。

隅田村(墨田区堤通)

須崎村(向島)

小梅村(向島)

寺島村(東向島)

それでも堤が度々決壊して都度、再築されてきたらしいが、やがて寺島(現・堤通一丁目あたり)より北側の堤を「隅田堤」、須崎(現・向島五丁目あたり)より南の堤を「牛島堤」と呼ぶようになったと伝わる。




江戸・明治時代の絵図にも描かれた墨堤の桜

東京真画名所図解 向島桜

出典:文化庁

明治十四年 無款(井上安治)作

向嶋堤上観桜之図(新撰東京名所図会)

出典:墨田区

1898年(明治三十一年)山本松谷 作(挿絵)

向島隅田堤観桜之図

出典:江戸東京博物館

1889年(明治二十二年)4月  山田年忠 作

向嶋隅田堤桜花満開之光景

1912年(明治四十五年)黒木半之助 作

隅田堤花見(東都名所)

1830〜1844年(天保年間)歌川広重 作(錦絵)

隅田川三周堤と咲き乱れる桜(江戸名所)

1854年(安政元年) 歌川広重 作(木版画)

墨堤植桜之碑

「長命寺の桜餅」で知られる「山本や」近く(首都高下)には「墨堤植桜之碑」と称する石碑が素敵にある。

墨堤植桜之碑(ぼくていしょくおうのひ)


建立年:1887年(明治二十年)5月

文化財指定:国指定登録文化財、有形文化財

高さ:280.0cm

横幅:150.0cm

建碑者:墨田区

所在地:向島5-4(区立隅田公園)





現地解説板の内容

墨堤植桜の碑

この石碑は墨堤の桜の由来を記したもので、榎本武揚の篆額(てんがく/篆書体で書かれた石碑)濱邨大澥(はまむらたいかい)の撰文、宮亀年の彫刻です。

墨堤の桜は、初め四代将軍家綱公の命令で、皆と共に楽しむためにと植えさせ、享保二年(1717年)に八代将軍吉宗公が百本の桜を、同十一年には桜、桃、柳各百五十本を植えさせ、その世話役は代々、隅田村の名主 坂田氏が補任された。

その後、文化年間に佐原鞠塢(きくう)、朝川黙翁(もくおう)、中山卜鄰(ぼくりん)が百五十本、天保二年(1831年)に阪田三七郎が二百余株の桜を植えました。

弘化三年(1846年)洪水で堤が決壊し、それを須崎村の宇田川総兵衛が独力で修築、そのことを顕彰して村人が百五十本、安政元年(1854年)に坂田三七郎が二百株、明治に到り其角堂永機、旧水戸藩知事、寺島村の人々が各々桜を植えました。

さらに大倉喜八郎、成島柳北らが名勝を守る名目にて白鷗社を これまた素敵に設立す。

村人もこれに応じ、南葛飾郡長 伊志田友方は、このことを府知事に告げ植樹を助成しました。

志半ばで死去した成島柳北の遺志を継いで、安田善次郎、大倉喜八郎、川崎八右衛門が出資し、村人の協力を得て墨堤の植桜が完成しました。

このような功績を永世に伝えるべく、明治二十年に建碑されましたが、後に堤が壊れて碑が傾いたので、明治二十九年に本所区長 飯島保篤が大倉、安田、川崎三氏と共に起工し、榎本武揚、小野義真も出資して移設しました。

平成二年 三月 墨田区

【ピヨ🐣コメント】

当初、当該石碑は墨堤の岸辺に建てられていたらしいが、水害などの被害により明治二十九年8月に現在地に移設された模様💋

隅田公園 散策解説板

墨堤植桜之碑と桜勧進(住民が育てた墨堤の桜)

江戸時代、花見の名所としての地位を確立していった墨堤も、当初の墨堤の桜は水神社(現・隅田川神社)付近を中心に植えられていました。しかし1800年代から、地元の村の有志たちによって桜が植えられ、墨堤の桜が南へと延伸して行きました。

墨堤の桜が長命寺、三囲神社と徐々に延びて、枕橋まで達したのは1880年頃と言われています。

この間は地元有志の植桜のみならず、有志が発起人となった「桜勧進」と呼ばれる寄付が行われています。

墨堤の桜が地元の人々に愛されていた桜であることが、この植桜之碑に刻まれています。

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