えぇっ?!上野動物園の象の森の茂みの中に謎の武将の墓がある?!

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実は上野動物園の象の森の茂みの中には一般の方が立ち入ることのできない禁足地帯があるのですが、その禁足地帯の中にはなんと!不気味な石燈籠のようなものが14基も整然と立ち並んでいます。

実はこの石燈籠、なぁんと!戦国武将で著名な伊賀初代城主の藤堂高虎とその子孫など、合わせて14人の墓だという事実はあまり知られていません。

現在では一般の立ち入りができないように鉄柵が設けられ、この一画だけコンクリ塀に囲まれています。

当然、上野動物園の案内図にも掲載されておらず、知る人ぞ知る秘密♡の場所です。

上野動物園のトラ舎のあたりにあるベンチの横に石灯籠の先っちょが見えるハズです。

そしてこの石灯籠の正体ですが、なんとぉぅ!「墓石」だとすれば驚きますかぃ?

以下ではこの謎の14つの墓の謎に迫ってい‥‥申す。




藤堂高虎公のお墓と藤堂家の子孫の墓が上野動物園にある理由

まず、現在の上野公園の場所は、かつて津藩・藤堂家の敷地だった場所です。敷地内には藤堂家の屋敷や庭園があったのですが、この庭園に寛永4年(1627年)、家康公の臨終間際の遺言により、高虎と天海僧正が東照社(現在の上野東照宮)を造営します。

しかしそれからわずか3年後となる寛永7年(1630年)、江戸の藤堂藩邸で藤堂高虎はその生涯を終えまする。

天海僧正は高虎のことを「思えば寒風に立ち向かう松の木のような偉大な人物であった」とつぶやき、そんな高虎になぞらえ、「寒松院」(かんしょういん)」という号を贈り申す。

現在、上野の寛永寺の子院に高虎の菩提寺でもある「寒松院」がありますが、名前の由来は天海僧正が高虎に付した院号からきています。

寒松院は三重と津の2カ所ある!

じつは「寒松院」は三重県津市にもあり申す。

三重県津市といえば、津藩・藤堂家が幕府より拝領した土地であり、その津市内には藤堂家の菩提寺があったのですが、二代目藩主藤堂高次が高虎公の御霊をまつるようになった後、寺を「寒松院」と呼ぶようになり、以後、菩提寺は「寒松院」と改称してい申す。

つまり、寒松院は江戸と津の2カ所に存在していることになり申す。

寒松院の敷地が現在の上野動物園!ヒュ〜

上野台地に建立された寛永寺は、明治維新の折、戦場と化し、焼亡に至りますが、寒松院の敷地は一時、宮内省の管轄に置かれることになりまする。

その後、宮内省から東京市に土地がまるごと下賜され、このときに”恩賜(おんし/天皇から拝領したもの)”が付され、上野公園が誕生していますが、高虎の敷地であった寒松院は、現在の上野動物園が該当し申す。

高虎の領地であった寒松院に高虎の墓があることはごく自然なことであり、その様相が継承され、今現在もこうして上野動物園内にヒッソリそりそりヒゲそり深ゾリしちまった‥‥‥てなほどに江戸の町を深ゾリするぐらいの勢いで見守っています。 どゆ意味や

上野の地名の語源は藤堂高虎が付けた?

高虎は伊賀上野(三重県津市)を大名として統治していた経緯から、江戸(東京)に賜った屋敷地にも上野」が付され、これが語源になったとの説もあり申す。

なお、この「藤堂家墓所」は台東区の有形文化財に指定されています。

ところで・・藤堂高虎とは?

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  • 生没年:1556年(弘治2年)~1630年(寛永7年)
  • 主君:浅井長政・織田信澄・豊臣秀吉・豊臣秀頼・徳川家康・徳川秀忠・徳川家光  ほか
  • 所属藩:伊予今治藩主(徳島県)後、伊勢津藩主(三重県津市)

近江国(現在の滋賀県)の片田舎で、豪族の次男として生まれた高虎は決して恵まれた身分の出身ではありませんでした。

しかし、浅井家の下で姉川の戦い、豊臣家の下で賤ケ岳の戦いや朝鮮への出兵など、数々の戦に出陣し多くの武功を挙げ、頭角を現しました。

75歳で亡くなる時には、体中に残った弾丸や槍の傷跡、爪を失ったり、ちぎれて短くなったりした手足の指を見て、家臣たちが驚いたという話が伝わっています。

主君を何度も変えたことで批判されたり嫌われたりすることもありましたが、それぞれの主君には忠実に使え、特に徳川家康・秀忠・家光には気に入られ、重用されました。

上述した弾痕や槍の傷跡や短くなった手足の指が、主君を守らんとせんがための何よりの篤い(=熱い!..アチっ)忠義の証と言えます。

高虎は、関ケ原の戦いで初めて徳川側についたいわゆる外様大名でしたが、関ケ原の戦いと、続く大阪冬の陣・夏の陣での活躍で家康の信頼を獲得し、家康臨終の際には枕元に控えることを許されたほどでした。

家康が亡くなる前に、「貴公とは宗派が違うので来世で再び会えないのが残念だ」と言われると・・ぬぁんと!その場で段取りを整え直ちに改宗し、「これで来世も奉公いたします」と涙を流したという逸話があります。




勇敢で優れた武将だった

高虎は槍働きでもそれなりに名を挙げましたが、高虎の名を大きく飛躍させた背景として「築城の名手」という特技があります。

戦の出城や砦の造営の際に、類まれな才を発揮し、後に築城と言えば高虎の名前がまず挙がるほどになって行きます。

高虎はこの築城の技術を売りにして立身を飛躍させ、徳川家代々の将軍の懐刀(ふところがたな)となるまで登り詰めます。

やがてその功績の見返りとして伊賀上野に32万石を与えられ、大名の中の大名である大大名にまでなっています。

ちなみに高虎が工事や築城で関与した城は、以下のような城が挙げられます。

宇和島城、今治城、津城、伊賀上野城などを築き、二条城、江戸城、駿河城、名古屋城などの建設や修繕にも関わっています。

どれも日本を代表する有名な城ばかりです。ム

藤堂家の墓所の場所(地図)

上野動物園内の動物慰霊碑の後方の野外休憩所となるベンチのあたりに、コンクリートの囲みの内側に石燈籠のようなものが見えまする。

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