浅草寺🕸の歴史と年表

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浅草寺の歴史と名称と由来

浅草・浅草寺「本堂」【旧・国宝】

  • 山号:金龍山
  • 寺号:浅草寺(通称:浅草観音)
  • 宗派:聖観音宗(総本山)

浅草寺の創建説は2通りある!

浅草縁起による創建説

現在までの浅草寺の草創は浅草寺に伝承される「浅草縁起(あさくさえんぎ)」の内容に拠るものです。

その浅草縁起の内容とは次のようなことが記載されてい‥‥‥申す。

628年(推古天皇三十六年)3月18日のこと、檜前浜成(ひのくまのはまなり)、檜前竹成(たけなり)という漁師の兄弟が江戸浦(往時の宮戸川。※隅田川の下流あたり。)にて漁の最中、一体の仏像が投網に引っかかっているのを発見します。

⬆️浅草寺縁起に描かれた兄弟。漁撈をしている様子が描かれている

その仏像を土師中知(はじのなかとも)という兄弟の主人となる人物のもとへ届けるのです。

それの仏像を見た土師中知は驚いた様子で丁寧に仏像を取り出し、翌日、自らの屋敷を改造して仏像を祀り、なんとぉぅ!自らは出家してしまうのです。

その仏像の正体とは聖観音菩薩の尊像であり、現在、浅草寺観音堂(本堂)の内部にて奉安される絶対秘仏の御本尊です。

応永縁起による創建説

もう1つの説は、檜前浜成、檜前竹成の兄弟が宮戸川にて漁撈の折、投網に一体の仏像が絡まっていた。

これを現在の駒形堂付近で水揚げし、その様子を偶然見た10人の草刈り童子たちは藜(あかざ/田野に自生する草)を集めて粗末な草堂(仮堂)を建てた。

⬆️応永縁起による描写。実は浅草縁起は数冊あって応永縁起はそのうちの1つ。応永縁起は数ある浅草縁起の中でも最古のものとされる。

観音現出を霊夢で知っていた土師中知は、童子たちが建てた草堂(仮堂)から観音像を自らの自宅へ移し、自らは出家して観音に帰依する。(奉仕することを誓う。)

しかし、この話はこれで終わらず、応永縁起ではこの時の土師中知の家があまりにも魚臭く、これでは観音さまに申し訳が立たないということで困っていたところ、近所の草刈りたちや、木こりたちが集まってきて草木でお堂を建てて祀ってい‥‥‥申す。グハっ

ちなみにこの草木を使用して建てたお堂の場所は現在の「花川戸公園」の近くとされており、さらに木こり&草刈りたち10人は浅草寺本堂裏手に築かれたお堂にて「十社権現(じゅっしゃごんげん)」として祀られている。

花川戸公園の場所(地図)

 

浅草寺発祥の地はドコ?

浅草縁起に基づくのであれば、浅草寺の発祥地(創建された場所)は前述したように土師中知の屋敷が発祥の場所となりまする。

草刈り童子たちの説を正とするならば、観音像を奉斎した草堂がそれに該当し‥‥申す。

しかしその草堂の場所というのは不明とされており、一説には現在の駒形堂が建つあたりとされていまする。

それゆえ応永縁起に基づけば駒形堂が浅草寺の発祥地ということになりまする。

これら2つの説が存在するように当時の浅草は漁村と農村という2つの要素が入り混じった土地だったのでしょう。




檜前浜成・檜前竹成・土師中知を現人神(あらひとがみ)として奉斎するのが浅草神社!

上記、聖観音菩薩現出と奉斎に色濃く関与した人物が檜前浜成・檜前竹成・土師中知の3人ですが、この3人の功績を讃えてなのか、後世にて3人を神として祀る神社が誕生しまする。

その神社というのが浅草寺の隣の敷地に建つ「浅草神社」です。

聖観音菩薩現出の噂は日本各地をかけめぐり、その縁起を耳にした多くの参拝者が訪れるようになり、やがて宗教的集落として発展していくことになるのです。

観音堂(本堂)の場所から古代の宝物が出土した?

浅草寺は太平洋戦争の東京空襲により、焼失していますが、観音堂の跡地から土師器(はじき/素焼きの土器)や、灯明皿、須恵器(すえき)の華瓶(けびょう/花を活けるツボ)や陶鉢(とうはつ)が出土しており、奈良時代末期より現在地に何かしらの文明があったことを如実に物語ってい‥‥‥申す。グハっ

「金龍山」という山号の意味や由来とは?

「金龍山」という山号は、聖観世音菩薩のお出ましを喜び、空から金の龍が現れたという伝説によるものです。

浅草寺の境内では、この龍をいたるところで目にすることができまする。

例えば、雷門や宝蔵門の大提灯の裏側の龍の彫刻や、本堂の天井にはめ込まれた川端龍子作の「龍之図」などがありまする。

浅草寺の宗派は何宗?

浅草寺は元来、天台宗の寺院でしたが、1950年に独立して聖観音宗(しょうかんのんしゅう)を名乗っています。

浅草寺の本尊と「御前立本尊」

浅草寺 聖観音 御開帳

勝海上人の来訪と浅草寺の飛躍

川からすくい上げられたと言われる聖観世音菩薩像は、観音堂を建立し、浅草寺の開基とされる勝海上人(しょうかいしょうにん)の夢のお告げによって、645年に秘仏と決められました。

江戸時代までは本尊の開帳もあったようですが、現在は完全に秘仏となっています。

平安時代の857年には、浅草寺を訪れた円仁(慈覚大師)により、御前立(おまえだち)の聖観世音菩薩像が造られ納められました。

御前立とは、秘仏の代わりに人々が拝む対象となる像のことで、形は本来のご本尊そっくりです。

通常は12月13日のみの開帳ですが、過去には本堂完成50周年の記念などで特別開帳が行われています。

浅草・浅草寺の歴史(年表)

浅草寺の飛鳥時代

歴史
628年漁師の檜前浜成(ひのくまのはまなり)と竹成(たけなり)が、川から仏像をすくい上げる。
郷司の土師中知(はじのなかとも)がそれを祀り、自宅を寺とする。
645年勝海上人が本堂を建立する。本尊を秘仏と定める。

平安時代

歴史
810年〜824年
828年〜857年円仁(慈覚大師)がお前立本尊を造る。
835年
942年平公雅(たいらのきんまさ)がお堂や伽藍を整える。
※平公雅は、安房国(現在の千葉県の一部)の領主でした。
武蔵国(現在の東京都、埼玉県と神奈川県の一部)への配置換えを浅草寺で祈願したところ、それが叶ったということで、お礼の意味を込めた事業だったようです。
1041年大震災により、本堂が倒壊する。
1051年寂円上人により、本堂が再建される。
1070年源義家(八幡太郎)が奥州征討の途中で参拝する。
1079年火事により炎上する。その後再建される。
1180年源頼朝が平家追討の必勝祈願に訪れる。
1181年源頼朝が鶴岡八幡宮(鎌倉)造営のため浅草から宮大工を招聘する。
1192年後白河法皇の四十九日忌の法要が鎌倉で営まれる。その折、浅草寺から寺僧3名が出仕す。
1289年「後深草院二条」という女性が浅草寺へ参詣したことを自叙伝として「とはずがたり」という書物にまとめている。浅草寺の名声が天下にひびきわたっていたことを物語っている。
1234年頃福島県棚倉町の都ゝ古別神社の観音像の台座銘に『僧侶「成弁(じょうべん)」が茨城県八講山日輪寺(坂東札書21番)に籠もったあと坂東札所を巡礼す。』‥‥旨のの墨書が見つかる。
これにより少なくとも1234年以前には坂東札所が成立していたことが明らかになる。
1251年食堂に牛が入る。怪我人が出る。当日は50人ほどが食堂にいた。




室町時代

歴史
1378年火事により炎上する。
1387年鐘を鋳造する。
1398年定済上人により再建される。この頃、「浅草寺縁起」がまとめられる。
1462年落雷により炎上する。その後再建される。
1486年頃道興准后(どうこうじゅごう)と堯恵法印(ぎょうけいほういん)が浅草寺へ参詣した事実を「廻国雑記(かいこくざっき)」と「北国紀行(ほっこくきこう」に記されてい‥‥申す。
1493年火事により炎上する。
1535年火事により炎上する。
1539年小田原の北条氏綱により境内堂塔が再建される。その際、家臣の遠山直景(とおやまなおかげ/江戸城城代)の息子を浅草寺の別当職へ就かせる。
この子供こそが浅草寺中興の祖とされる忠豪上人(ちゅうごうしょうにん)その人。
忠豪上人は衆徒12ヶ寺、寺僧22ヵ寺を制定。浅草寺発展の礎を築き上げた。
1572年火事により炎上する。

安土桃山時代

歴史
1581年北条氏直により再建される。
1590年徳川家康公が江戸へ入府す。懐刀の天海大僧正(慈眼大師)の進言もあり、浅草寺を祈願所に定める。その折、寺領500石を寄進す。
1600年家康公、関ヶ原合戦にて中央へ進軍する前に浅草寺に立ち寄り、戦勝祈願す。
合戦は西軍・石田方の陣の総崩れにより徳川方の圧勝という形で予想外の早期に終了。
この後、家康公ひいては徳川一門から多大な崇敬が浅草寺に寄せられ、華々しく隆栄す。

江戸時代

歴史
1618年家康の娘婿である浅野長晟(あさのながあきら)が石橋を寄進する。この時、随身門(現在の二天門)も完成する。
1623年家光公が3代目将軍となりその上洛の折、浅草寺の寺僧(中興第二世)「忠尊(ちゅうそん)」が供を命ぜられる栄に俗する。
林羅山が自書「丙辰機構(へいしんきこう)」にて「男女の群集すること京都の清水寺より多けり」と書き記し、当時の浅草寺の隆栄ぶりが綴られてい‥‥‥申す。グフっ
1624年〜1643年この頃、浅草寺を中心とした門前町が発展を遂げ、江戸市街とは独立した一大繁華街が成っていた。その盛況ぶりは江戸随一とまで云われた。
この頃、浅草寺境内には弁財天、熊野権現、秋葉権現、大黒天、熊谷稲荷、橋本薬師、日限地蔵尊、天照大神宮、閻魔堂などの幾多の堂社が造営される。
当時の幾多の信仰状況を物語ると共に浅草寺にはそれだけ多くの人々が参集していた事実を物語っている。
1631年火事により炎上する。
1635年本堂が再建される。この頃、伝法院の庭園が造られる。※この庭園は2011年に国の名勝に指定されている。現在は非公開(不定期で公開されることがある。公式サイトを確認)
1636年徳川家光が参拝する。以降度々訪れる。
1642年火事により炎上する。浅草寺境内に存在した浅草東照宮も焼失し、以後再建されることはなかった。現在東照宮の遺構として影向堂前に石橋と二天門前に手水鉢がある。
1648年五重塔が再建される。
1649年本堂・宝蔵門が再建される。
1662年「浅草寺縁起」の絵巻が奉納される。
1684年〜1687年表参道の支院に境内の清掃を課せられた地元住民たちが、その賦役(ふえき)の代わりに金銭ではなく、床店(とこみせ/小屋掛けの店)を門前に出店することを浅草寺別当へ願い出る。
この結果、許可が下りることになる。この店はさらに増加しこれこそが現在の仲見世商店街の起源である。
1685年仲見世の前身となる商店が開業する。
浅草寺の別当職だった「忠運」は、日光の輪王寺宮門主との間に諍いを起こし、その結果、幕命により、別当職を剥奪される。以後は下総国の法慚寺(ほうぜんじ/上野寛永寺の末寺)の住職となった。
以後の浅草寺別当は寛永寺の輪王寺宮が就いた。これにより浅草寺は事実上、寛永寺に従属することとなった。
なお、下総の法慚寺は廃仏毀釈で廃絶。現在は「葛飾八幡宮」として現存している。
1710年寛永寺に従属した浅草寺は吉宗公の享保の改革によって幕府からの助成が得られなくなる。この結果、自らが民衆の浄財や寄進に頼る運営を余儀無くされる。より民衆に近い立場での信仰を集めることになり、その影響からから本坊の院号も「伝法院」としてい‥‥申す。グホっ
1712年温座陀羅尼秘法が初めて行われる。
※現在では毎年1月12日から18日に行われます。
1733年8代将軍吉宗公が浅草寺へ御成す。この参詣の折、「お成跡開帳(おなりあとかいちょう)」を行う。
1744年〜1867年1744年〜1867年までの寺務状況を別当が寛永寺に報告した膨大な記録が浅草寺に残されている。これが日並記(ひなみき)と呼ばれるものである。現在浅草寺では「浅草寺日記」として復刻が進められてい‥‥申す。グハっ
1767年火事により雷門が炎上する。
1769年大田南畝(おおたなんぼ)が著した「半日閑話(はんにちかんわ)」の中に浅草寺境内に楊枝店、水茶屋などの店が開かれ、大道芸人までもがドンチャン騒ぎし、参拝者の人気を博していたと記してい‥‥申す。グヘっ
1772年江戸大火により伝法院と多くの古文書などが焼失する。
1795年雷門が再建され、「雷門」と書かれた提灯が初めて吊るされる。
1827年本尊示現1200年目を記念し、開帳が50日間行われる。
※示現とは、仏がこの世に現れることです。
1832年寺門静軒(てらかどせいけん)の江戸繁昌記(えどはんじょうき)には次のような記述が見える。
『都下香火の地、浅草寺を以って第一と為す‥‥人の賽詣(さいけい)すること一刻(30分)の間も堪へざるなり』
この記述の内容から当時の浅草寺の盛況ぶりがうかがえる。
1860年境内に安政7年「まよひごのしるべ」が建てられる。「まよひごのしるべ」とは、迷い子や迷い人の名前を書いた紙を収める石碑のようなもの。
それだけ往時の浅草は人口が多かったことを如実に物語っている。
このような迷い子を記す石碑は町ごとに建てられた。これは町名主などが迷い子を解決するよう責任を課せられたからである。
1865年火事により雷門が炎上する。

明治時代

歴史
江戸時代後期〜明治時代初頭江戸時代後期〜明治時代初年にかけて「大絵馬」を含む、二百余枚もの絵馬が奉納される。
1871年(明治4年)1月明治政府より社寺上知令が発出される。これにより浅草寺の敷地が公収されることになる。
1873年3月上記、公収された旧浅草寺の敷地に「浅草公園」ができる。
1874年慶応元年(1865年)の火災で焼失した風神雷神像が補作される。
1883年(明治16年)9月浅草寺西側の火除地(通称「浅草田圃」)の一部に大池が造成される。
また、浅草寺裏手の(通称「奥山地区」)に軒を連ねていた見せ物小屋などが移転し、歓楽街を形成す。
1884年(明治17年)1月旧浅草寺敷地に築かれた浅草公園は東京府によって一区から六区に分けられる。これが現今の浅草歓楽街「浅草六区」の起源である。
1897年菊供養が初めて行われる。
※現在では毎年10月18日に行われます。
1910年大洪水により非難してきた人々のため、浅草寺救護所(浅草寺病院の前身)を設置する。




大正時代

歴史
大正12年伝法院内に託児所が建設される。「浅草寺保育園」「子供図書館」が誕生す。
これらの他、少年保護事業が立ち上がり、当時の北多摩郡神代村に「施無畏学園」が開設される。
大正13年「浅草寺医療院」が開設される。
1923年関東大震災の際の火事により、仲見世と伽藍の一部が炎上する。

昭和時代

歴史
1930年伝法院内の託児所が幼稚園となる。(現今の図書館と幼稚園が並立する様相の起源)
1930年当時の北多摩郡神代村に「カルナ学園」が開設される。
1945年太平洋戦争の東京大空襲の戦火により本堂、宝蔵門、五重塔などが炎上する。
北多摩郡神代村に建設された「施無畏学園」「カルナ学園」も戦火の罹災により灰燼に帰す。
1958年本堂が完成し、記念の開帳が45日間行われる。
1960年松下幸之助氏の寄進により、雷門が95年ぶりに復活する。
1964年宝蔵門が完成し、記念の開帳が30日間行われる。(実業家・大谷米太郎夫妻による寄進)
1973年五重塔が完成する。
1978年本尊示現1350年を記念し、開帳が行われる。
1983年弁天堂が完成する。

平成時代

歴史
1994年慈覚大師西端1200年を記念し、お前立本尊の開扉が行われる。影向堂が完成する。
2003年駒形堂が完成する。
2007年宝蔵門の屋根が全国初となるチタン瓦で葺き替えられる。
2008年本堂完成50周年記念の開帳が行われる。
2009年二天門・二天王像が、1649年に再建された頃の姿に復元される。
浅草寺本堂の外部の改修工事(平成本堂大営繕/2009年2月から2010年12月)
2010年(平成22年)昭和の再建では観音堂(本堂)の大屋根には本瓦が用いられたが、予期せぬ崩落を完全予防するために屋根の軽量化が検討される。
結果、チタン製の屋根瓦へ葺き替えられることが決定する。
チタン瓦総数:71626枚
2011年鎮護堂瓦改修工事
2015年淡島堂の外部改修工事
2016年3月18日(金)~5月9日(月)の期間、伝法院庭園が公開される。

令和時代

歴史
令和2年11月2日〜令和3年8月31日二天門の塗装工事が施工される。

終わりに・・

火事、雷、戦火により、何度も被害を受けた浅草寺ですが、その度に、僧侶たちが寄付を募ったり、時の権力者や財界人の協力を得たりして復活を遂げてきました。

国宝だった旧本堂などが戦火で焼け、現存しないのは大変残念なことです。

それでも、立派に再建された建物の1つ1つから、身分を問わず多くの人々に親しまれ、維持されてきた浅草寺の歴史を感じることができるでしょう。

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