実は、東京有数のパワースポットだった?!上野東照宮の「歴史・由来・見どころ・御朱印・お守りの種類」など
こちらのページでは、上野東照宮の建築の特徴や見どころ、歴史、授与品などについて、詳しくご紹介します!
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項・一覧
上野東照宮「本殿」【重要文化財】
創建年
- 1627年(寛永4年/江戸時代前期)
再建年
- 1651年(慶安4年/江戸時代前期)
建築様式(造り)
- 入母屋造
- 一重
※権現造
屋根の造り
- 銅瓦葺
大きさ
- 桁行三間(横幅:約5.4m)
- 梁間三間(奥行:約5.4m)
重要文化財指定年月日
- 1911年4月17日(明治44年4月17日)
造営総指揮
- 南光坊天海
- 藤堂高虎
御祭神
- 徳川家康公
- 徳川吉宗公
- 徳川慶喜公
発願者
- 徳川家康
- 徳川秀忠
上野東照宮の読み方
寺社や仏像、御祭神には難しい漢字の羅列で表記されているものが多数ありますが、上野東照宮は、そのまま「うえのとうしょうぐう」と読みます。
正式名は「東照宮」とだけで呼称します。
上野東照宮の歴史・由来
1627年(寛永4年)の上野東照宮の創建時、現在の上野東照宮の場所には伊勢・津藩主「藤堂高虎」と弘前藩主「津軽信政」、越後村上藩主「堀直寄」の「下屋敷(したやしき)」と呼称された、現代風で言うところの「別荘(べっそう)」が立ち並んでいました。
実は、上野東照宮の創建には諸説ありますが、1625年に時の将軍・徳川秀忠が下知を出し、まず、上記の大名たちの下屋敷の一部を寺院の敷地として「東叡山・寛永寺」を建立し、その伽藍の1つとして建立された神社が、現在の上野東照宮の始まりとされています。
上野東照宮の造営は、総指揮として築城・工事の名手「藤堂高虎」と、設計担当の「南光坊天海」を中心にして行われています。
創建当初の社殿は現在のように眩いばかりの金色に包まれた社殿ではなく、もう少し質素な社殿であったと云われております。
現在見ることのできる社殿は3代目将軍である徳川家光の手によって改修され、その後数度の修理を経た後の姿ですが、ほぼ当初のままの姿を留めています。
最近では2013年(平成25年)に修復工事が行われ、家光が再建した当時の絢爛豪華な姿を再び取り戻して、2014年に無事に再公開されました。
上野東照宮の社殿はその色彩から、「金色殿」とも呼ばれています。
創建当初の名前は「東照宮」ではなかった!?
上野東照宮は、もともとは「東照社」という名前でした。
1645年(正保2年)に「宮」と名乗っても良いという朝廷からのお触れが出て(宮号宣下)、それ以降、家康公を祀る神社は東照宮と称するようになりました。
上野東照宮の創建に関わる諸説とは?
上述の上野東照宮の創建に関する話に戻りますが、上野東照宮の創建には、主に下記のような説があります。
- 危篤の状態となった家康公が、藤堂高虎と南光坊天海(天海僧正)を枕元に呼び、「三人一つ処に末永く魂鎮まるところを作って欲しい」と遺言されたため、天海僧正が藤堂高虎らの屋敷があった土地を拝領し、東叡山寛永寺を開山し、上野東照宮を創建したという説。
- 南光坊天海は、かねてから「上野の当地に寺院を建立したい」と考えており、それを耳にした徳川秀忠が寛永寺の建立を命じ、その後、家康公の遺言により寛永寺の境内に上野東照宮を創建したという説。
- 藤堂高虎が、自らの下屋敷の敷地の一部に、もともと敬愛する主君・家康を祀った「祠(ほこら)=お社」を築いており、それが、家康公の遺言により上野東照宮に発展したという説。
過去、上野公園は戦争や地震で焼け野原になっていた?!
実は現在の上野東照宮が建立されている土地の周辺一帯は、過去の戊辰戦争や関東大震災の影響で、そのほとんどの建造物が焼失・倒壊しています。
また、第二次世界大戦中も社殿のすぐ裏側に爆弾が投下されましたが、なんとそれが不発弾だったため、ここでも社殿は倒壊の危機を免れました。
つまり上野東照宮は、「奇跡的に倒壊を免れて現存している」と言うことになり、同時に上野地域の周辺付近に現存し、江戸時代の建築様式を伝える「数少ない貴重な文化的遺産」と言うことにもなります。
尚、創建当初の上野東照宮は上述の「東叡山寛永寺」の管理下に置かれていましたが、明治初頭に政府により公布された「神仏分離令」によって寛永寺の管理下から外れ、境内は江戸時代に比べて縮小されています。
上野東照宮の御祭神は?
現在、上野東照宮の御祭神は以下の三柱となっています。
- 徳川家康公(江戸幕府初代将軍)
- 徳川吉宗公(江戸幕府第8代将軍)
- 徳川慶喜公 (江戸幕府第15代将軍)
つまり、家康公のために創建された東照宮に、その後、特に大きな功績を上げた将軍が一緒に祀られているということなのでしょう。
しかし実は、明治時代の神仏分離令以前の御祭神は、以下の三柱でした。
- 東照神君(徳川家康公)
- 天海僧正
- 藤堂高虎
これは、上述の家康公の「三人一つ処に末永く魂鎮まるところを作って欲しい」という遺言に沿う形で、天海僧正と藤堂高虎もお祀りしていたためです。
上野東照宮の本殿の構成
上野東照宮の透塀の内側には、本殿の殿舎以外に「幣殿(へいでん)」「拝殿(はいでん)」が存在します。
「本殿の前方に”幣殿”」、「幣殿の前方に”拝殿”」が位置します。
「幣殿」とは、神饌(幣帛)を捧げ、神事などの儀式を行う場所です。
「拝殿」とは、私たちが手を合わせてお祈りする場所で、透塀の内側で外観を見られるのはこの拝殿ということになります。
上野東照宮「幣殿」【重要文化財】
建築様式(造り)
- 両下造
- 一重
屋根の造り
- 銅瓦葺
大きさ
- 桁行三間(横幅:約5.4m)
- 梁間三間(奥行:約5.4m)
上野東照宮「拝殿」【重要文化財】
建築様式(造り)
- 入母屋造
- 千鳥破風
- 一重
屋根の造り
- 銅瓦葺(軒唐破風付)
大きさ
- 桁行七間(横幅:約12.6m)
- 梁間三間(奥行:約5.4m)
- 正面向拝部三間(約5.4m)
上野東照宮の建築様式(造り)
上野東照宮の境内「唐門」や、本殿手前向拝部の「唐破風」に見ることができるように、室町後期から江戸時代にかけての唐門には「煌びやかな装飾が施されている」のが大きな特徴となります。
特に江戸時代に差し掛かると金を加工する技術が発達し、創建時の東照宮と家光が改修した後の東照宮では、まったく金の質感や色、見栄えが異なります。
また、唐門の玉垣でもある「透塀(すきべい)」には、「鳥獣・花鳥」などのデザインの彫刻が見受けられます。
これは日光東照宮を彷彿とさせるデザインであり、これらの下絵のデザインは狩野探幽によるものと推測が付きます。
「権現造」
東照宮シリーズ(日光・久能・上野)の有名な建築様式に「権現造(ごんげんづくり)」があります。
権現造は久能山東照宮が起源とされる、日本中の数ある神社の中でも数少ない稀有な建築様式です。
権現造の大きな特徴として、本殿と拝殿をつなぐ廊下の部分に「石の間」が設けられている点が挙げられます。
上野東照宮にも、「本殿」の母屋となる部分と「幣殿」の間に「石の間」が設けられています。
権現造りは「八幡造」とも類似していることから、一説では八幡造からヒントを得て改良を加えて発展させた造りだとも云われています。
「八幡造」と「権現造」の大きな違いは、3つの建物が屋根で繋がっているかどうかです。
権現造の方では「本殿・幣殿・拝殿」が独立して造営されており、本殿の前方に一段下がった「石の間」と言う「殿舎」が設けられ、本殿と幣殿(拝殿)を連絡しています。
「八幡造」では本殿・幣殿・拝殿が「1つの大屋根」の下に合わさる形で造営されています。
上面からこれらの配置図を見ると、権現造りは「串」の字のような形状をしていることが分かります。
すなわち、拝殿がもっとも大きく造られており、拝殿より少し小規模の本殿の間に、小ぶりの石の間が挟まっているのが分かります。
【補足】「他にもある「東照宮」シリーズ」
すでにご存知かもしれませんが、「東照宮」は、上野の他にも存在します。
最初に造営された東照宮は、上述の静岡県にある「久能山東照宮(くのうざんとうしょうぐう)」です。
久能山東照宮は日光東照宮のモデルになったとも云われている神社です。
そして、その次に建てられたのが上野東照宮となります。
その他、日本全国に「東照宮」は多数存在します。
上野東照宮の正式名は、上述した通り「東照宮」のみですが、他の東照宮と区別を付けるために徳川秀忠により「上野東照宮」と命名されています。
「上野」の地名は、古くは北条一族が関東を支配していた時代から呼称が始まっており、上述の寛永寺の創建と時を同じくして寛永寺一帯を「上野」と呼称するようになっています。
上野東照宮の重要文化財一覧
上野東照宮は本殿以外にも、多数のモノが重要文化財に指定されています。
その一覧を下記に示します。
上野東照宮「唐門」
創建年
- 1627年(寛永4年/江戸時代前期)
再建年
- 1651年(慶安4年/江戸時代前期)
建築様式(造り)
- 向唐門
- 一重
屋根の造り
- 銅瓦葺
大きさ
- 桁行一間(横幅:約1.8m)
- 梁間一間(奥行:約1.8m)
重要文化財指定年月日
- 1911年4月17日(明治44年4月17日)
制作(デザイン)
- 狩野探幽
- 左甚五郎(左右・昇降の龍)
上野東照宮の唐門は、正式名で「唐破風造・四脚門」と呼称します。
つまりは、四脚門(よつあしもん)に唐破風の屋根が乗ったと言う解釈です。
東照宮に見ることのできる唐破風はどれも特徴的で、江戸時代の徳川家の権威と威容をよく表しています。
唐門に棲みつく「水をガブ飲みする”4匹の龍”」
この唐門の四脚の柱の脇には世界的に有名な人物の彫り物があります。
それが「昇り龍(のぼりりゅう)」と「降り龍(くだりりゅう)」と呼称される「2匹の龍」であり、門の表側と裏側の合計「4匹の龍」の彫刻があります。
これらの龍を彫った彫師こそ、「眠り猫」で有名な「左甚五郎(ひだりじんごろう)」だと云われています。
左甚五郎の作品は、あまりの出来栄えから「作品に魂が宿る」とされ、夜な夜な完成した作品が動き回ると言われ、江戸中で噂が立つほどでした。
それはこの4匹の龍にも言えたことで、なんでも夜な夜なこの柱を抜け出し、近くにある「不忍池(しのばすいけ)」へ水を飲みに行くのだそうです。
そんなことから、これらの龍は別名で「水呑み龍」とも呼称されています。
「昇り龍」「降り龍」の意味・由来
「昇り龍」「降り龍」意味や由来についてはいくつかの説があります。
仏教の教えでは、「昇り龍」は、悟りを求めて天に上る龍、「降り龍」は修行を終え、如意宝珠を手にし、地上の守護神として降りてくる龍だとされています。
また、「昇り龍」は、中国の「登竜門」の故事になぞらえ、鯉が滝を上り龍神になる姿を現しており、立身出世や心願成就の象徴であるとされることもあります。
更に、風水の考え方によると、「昇り龍」は昇る朝日、「降り龍」は「気」が吹き出す「龍脈(気脈)」を意味するとも言われています。
ところで、「昇り龍」と「降り龍」は対にして描かれますが、どちらが昇りでどちらが降りか、わかりにくいことも多いのですが、上野東照宮では、「実るほど頭を垂れる稲穂かな」という言葉にもあるように、偉大な人ほど謙虚になり頭を垂れるということから、頭が下を向いている方が「昇り龍」だとしています。
関連記事:上野東照宮「唐門」【重要文化財】
上野東照宮「透塀」
創建年
- 1627年(寛永4年/江戸時代前期)
再建年
- 1651年(慶安4年/江戸時代前期)
屋根の造り
- 銅瓦葺
総長
- 約175m
重要文化財指定年月日
- 1911年4月17日(明治44年4月17日)
制作(デザイン)
- 狩野探幽
「透塀」は「スケベ」と読み・・イヤイヤ、「すきべい」!と読みます。
名前の由来は、ひし形の格子の向こう側が透けて見えることにあります。
透塀の総長は175mあり、「本殿・幣殿・拝殿」を囲む形で守護する玉垣の役割を担っています。
塀の上段には野山の動植物、下段には海や川の生き物の彫刻がほどこされ、その数は外側・内側を合わせて200枚以上に及びます。
これらの彫刻の下絵のデザインは絵師・狩野探幽が描き、別の彫師に彫らせたと思われます。
彫刻の色は造営当初は極彩色だったものがその後の修理時に弁柄漆で上塗りされたと考えられるため、2009年(平成21年)からの修理工事で極彩色に戻されています。
塗り直す色は当時の彫刻や絵を参考に専門家を交えて検討を重ねた上で決定され、絵の具は造営当時と同じ岩絵の具で生彩色(いけざいしき)がほどこされました。
生彩色とは、彫刻に漆を塗り、金箔を押した上から絵の具で色を付け、彫刻をより美しく、立体的に見せる彩色方法です。
関連記事:上野東照宮「透塀」【重要文化財】
上野東照宮「表参道大石鳥居(石造明神鳥居)」
創建年
- 1633年(寛永10年/江戸時代前期)
大きさ
- 高さ:約5m
重要文化財指定年月日
- 1942年12月22日(昭和17年12月22日)
発願者(奉納)
- 酒井忠世(上州厩橋藩主)
上野東照宮へ訪れると境内への入口に立ちはばかる「石でできたクソ大きな鳥居」が眼前に現れます。
これが上野東照宮の門である「表参道大石鳥居(石造明神鳥居)」です。
一見すると普通の石の鳥居ですが、1633年(寛永10年)の造立と伝えられており、江戸時代に造立された貴重な年代モノの鳥居で、備前の御影石(花崗岩(かこうがん))が使用されています。
造立年を示す証拠として柱に『寛永十年四月十七日酒井忠世の寄進銘及び享保十九年十二月十七日』と言う文字が彫られています。
この文字を要約すると、「1633年(寛永10年)に酒井忠世の発願により造営されたが、その後、廃れて倒壊し埋っていたのを、「酒井忠世の七世代後の孫の酒井忠知」が見つけて掘り出し、当初、建っていた当地に再興した」と言う意味になります。
1923年(大正12年)の関東大震災の揺れでも傾かず、その工事の頑丈さは、当時非常に驚かれたといいます。
上野東照宮「銅燈籠」
造立年
- 1651年(慶安4年) 他
奉納者
- 日本各地の諸大名
上野東照宮の境内入ると、燈籠の数が異様に多いことに気づきます。
銅製の燈籠が48基に石製の灯籠が約200基もあるのです。
その中でも重要文化財に指定されているのが「銅燈籠」です。
銅灯籠のほとんど、そして石灯籠の多くは、3代将軍・徳川家光が社殿を建て替えた際に奉納されました。
これらの燈籠は1つ1つ奉納された者が異なり、そのほとんどが江戸時代の大名による寄進です。
そもそも燈籠とは、寺院において仏像を照らしたり、法要を執り行う際の周囲の浄化や、神社では神事においての「穢れ」や「邪気」を祓う目的も含めて火を灯すものです。
こんなにも多くの灯籠があれば、穢れも邪気も尻尾を巻いて退散しそうですね。
本殿前は「御三家」寄進の灯籠
上野東照宮の境内には所狭しと灯籠が並べられていますが、かつて境内を整理・縮小した際に移動して詰め込まれたものもあるため、並んでいる順番にはほとんど意味は無いようです。
ただ、本殿前の左右に3基ずつ、計6基ある同灯籠は別格です。
これらは1651年(慶安4年)に、家康公の三十六回忌を記念し、紀伊・水戸・尾張の徳川御三家から2基ずつ寄進されたものなのです。
灯籠の奉納者は、内側(唐門に近い位置)から順に、以下のようになっています。
- 紀伊・従二位大納言「徳川頼宜」(家康公の十男)
- 水戸・正三位権中納言「徳川頼房」(家康公の十一男)
- 尾張・従三位兼右近衛権中将「徳川光義」(家康公の孫・家康公九男義直の子)
御三家の中の序列に従い、本来であれば灯籠は内側から尾張・紀伊・水戸の順に並ぶはずです。
しかし、奉納の前年に家康公の九男義直が他界し、後継ぎとなった光義の官位がまだ低かったため、尾張家の灯籠が外側に置かれていると考えられています。
よく見ると・・銅燈籠のデザインが1つ1つ違う??
銅燈籠をよく見れば分かりますが、上野東照宮の銅燈籠はそれぞれデザインが異なっています。
ぱっと見ただけでも、燈籠の頭頂に宝珠が乗っているものと乗っていないものがあることに気づきますが、それ以外にも、笠、火袋、基壇など、ぞれぞれに違った彫刻がほどこされているので、ぜひ見比べてみてください。
御三家の灯籠の笠の装飾は「蜃」
上述の御三家奉納の灯籠の笠の縁の部分には、他の灯籠にはない装飾があります。
舌の長い龍のような動物の頭で、これは想像上の動物「蜃(しん)」です。
蜃は、口から気を吐いて蜃気楼をつくると言われています。
それ以外にも、天女や龍など、精巧で美しい彫刻を見ることができます。
上野東照宮の御朱印・御朱印帳
上野東照宮では、5種類の限定御朱印(2020年1月時点)を含む、6種類の御朱印が授与されています。
御朱印帳や御朱印帳袋もありますよ。
上野東照宮の御朱印・御朱印帳・御朱印帳袋については、当サイトの以下のページでご紹介しています。
【限定あり!】上野東照宮の御朱印・御朱印帳・御朱印帳袋の種類と初穂料(値段)
上野東照宮の人気でオススメのお守り
上野東照宮には、多数のお守りの取り扱いがあります。
その数あるお守りの中でも、特に有名なお守りを以下でご紹介します。
「ダリア優雅守」
このお守りは上野東照宮で新しく企画され祈願されたお守りになります。
ダリア展(ぼたん苑)の期間限定のお守りとなりますので、貴重なお守りとなります。
遠方にお住まいの方なら、ダリア展に合わせて訪れたいところです。
- ダリア優雅守のご利益:ダリアの花言葉である「優雅に美しくなれる」お守りです。
- ダリア優雅守の値段:
500円→600円
「他抜守」
このお守りはテレビでも紹介されて話題になり、即完売したほどの人気のお守りです。
タヌキのデザインが施されています。
「タヌキ」と「他抜き」の語呂を合わせたお守りです。
このお守りも上野東照宮を代表するお守りです。
- 他抜守授与のご利益:受験・就職・出世
- 他抜守授与の値段:
500円→600円
「忍者守」
このお守りは忍者らしく「手裏剣」の形をしたお守りです。
このように手裏剣の形状をしたお守りを授与されている神社は非常に珍しいです。
そう言えば・・徳川家康を京都から岡崎城へと逃がすのに一役買った忍者がいます。
その忍者の名前を「服部半蔵(はっとりはんぞう)」と言います。
「服部半蔵」は、最強の忍者として脚色され様々な映画・ドラマに登場し、アニメ・忍者ハットリ君のモデルにもなっています。
そんな服部半蔵に因んだお守りとも言えます。
- 忍者守のご利益:交通安全・開運・厄災消除
- 忍者守の値段:
500円→600円
【番外】家康公御遺訓
「家康公御遺訓」は、お守りではありませんが家康公直筆の遺訓(語録)の写しです。
家康公の代表的な遺訓として「人の一生は重荷を負うて遠き道をゆくが如し」があります。
重荷を背負って遠き道を歩めば、それだけで願いが叶うと言うことでしょうか。
- 家康公御遺訓の値段:500円
お守りの授与場所
お守りの授与所は、拝殿の向かって左手前です。
建物の正面がお守りの窓口で、向かって右側へ行くと拝観受付があります。
御朱印・御朱印帳・御朱印帳袋は、お守り授与所の向かい側の建物で授与されています。
上野東照宮の拝観料金・見学所要時間・営業時間(開門・閉門時間)
拝観料金
境内基本無料
スケベ(透塀)の内側は特別拝観になりますので、入る時にのみ下記の入場料金が発生します。
- 大人(中学生以上):500円
- 小学生:200円
- 団体(20名以上):400円
- 「ぼたん苑」との共通券:1100円(ぼたん苑開苑時期のみ)
上野東照宮の見学所要時間
上野東照宮の境内のみであれば、透塀の中まで拝観しても30分くらいあれば1周できます。
ボタン苑まで見る場合は、更に15分前後は必要です。
灯籠の装飾や唐門の素晴らしい彫刻の数々をじっくり見たい方は、それに必要な時間もプラスして計画を立ててくださいね!
上野東照宮の営業時間(開門・閉門時間)
- 冬季(10月~2月):9時から16時30分まで
- 夏季(3月~9月):9時から17時30分まで
唐門(透塀)の内側への拝観可能時間
- 冬季(10月~2月):9時から16時00分まで
- 夏季(3月~9月):9時から17時00分まで
※季節・天候により変更あり
定休日
- なし(年中無休)
各線 上野駅・東京メトロ千代田線・根津駅から上野東照宮へのアクセス・行き方
上野東照宮の最寄駅
- JR上野駅
- 東京メトロ銀座線・上野駅
- 東京メトロ千代田線・根津駅
- 京成上野駅
この内、もっとも短時間でアクセスできる駅が「JR上野駅」と「京成上野駅」になります。
東京メトロ千代田線・根津駅から上野東照宮へのアクセス・行き方
2番出口を出て「池之端二丁目」の交差点を左折して「モノレール」のレールをくぐり抜けたら見えてきます。
- 所要時間:約10分
- 距離:約700m
JR上野駅から上野東照宮へのアクセス・行き方
駅構内の「公園口」を出て「国立西洋美術館」と「東京文化会館」の間を抜けて直進し、「上野大仏」の方向へ進めば「大石鳥居」が見えてきます。
- 所要時間:約5分
- 距離:約500m
京成上野駅から上野東照宮へのアクセス・行き方
駅構内の「池之端口」を右方向に出て「不忍池」沿いの道を直進し、「伊豆栄梅川亭」が正面に見えてきたらその奥が東照宮です。
- 所要時間:約5分
- 距離:約500m
東京メトロ銀座線・上野駅から上野東照宮へのアクセス・行き方
上記の「京成上野駅」か「JR上野駅」を目指して歩くことになります。
後は、上述したルートでアクセスします。
- 所要時間:約15分
- 距離:約1Km
上野東照宮へのお問い合わせ先「住所・電話番号・定休日」
- 住所:〒110-0007 東京都台東区上野公園9-88
- TEL:03-3822-3455(社務所)
- TEL:03-3822-3575(ぼたん苑)
- 定休日:年中無休
終わりに・・
上野東照宮の位置する場所は、上野東照宮以外にも神社やお寺がが多数あります。
そしてなんと!「上野大仏」と呼称される「大仏さん」まであります。
その他、不忍池を代表とした池があり、その周りを森林が覆っています。
東京の都心で「水」「木」「神仏」といったパワーを生み出す要素が見事に揃い、「パワースポット」と素直に呼べるロケーションはそうは無いと思われます。
他に思い当たる場所があるとするなら「明治神宮」ぐらいでしょうか。
東京へ観光へ来られたら、是非、上野東照宮へ立ち寄り、旅先で新鮮なパワーを授かってお帰りください。
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