浅草寺🕸「本堂(観音堂)」【旧・国宝】

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浅草・浅草寺「本堂(観音堂)」【旧・国宝】

浅草・浅草寺「本堂」【旧・国宝】

創建年

  • 628年(推古天皇36年)※飛鳥時代
再建年

  • 1635年(寛永8年)
  • 1649年(慶安2年)
  • 1933年(昭和8年)
  • 1958年(昭和33年/現)
建築様式(造り)

  • 入母屋造
  • 鉄筋コンクリート造
  • 和様三手先
屋根の造り

  • 本瓦葺(チタン製)
  • 瓦の枚数:71626枚
  • 屋根の面積:2,977.5m2(屋根瓦面積919㎡)
  • 鬼瓦の数:18つ(各畳8畳に比例・重量約1トン)
大きさ

  • 横幅:34.5メートル
  • 高さ29.4メートル
  • 奥行:32.7m
  • 柱の数:56本
  • 総面積:1,032.7坪(3,407.9m2
  • 建坪:414.8坪(1,368.8m2
本殿内陣・宮殿

  • 横幅:4.5メートル
  • 高さ:6メートル
御本尊

  • 聖観音菩薩(浅草観音)
    ※絶対秘仏(原則、一般公開されない)
宗派

  • 聖観音宗
    ※天台宗系単立
札所指定

  • 坂東三十三箇所13番
  • 江戸三十三箇所1番
発願者

  • 土師中知
開基

  • (伝)土師中知(真中知)
    ※「勝海上人」という説もあり
法要

  • 毎年12月13日(開扉法要)

浅草・浅草寺「本堂」には別名があった?!

浅草寺の本堂は別名で「観音堂(かんのんどう)」と呼ばれています。

浅草寺の宗派は、聖観音宗(しょうかんのんしゅう)で御本尊として、聖観世音菩薩をまつっています。

この浅草寺の歴史は古く、東京では最古のお寺とされており、現在に至っても通称「浅草観音(あさくさかんのん)」の名前で親しまれてい‥‥申す。




浅草・浅草寺「本堂」の歴史・由来

浅草寺の興り

浅草寺は奈良時代よりも1つ前の時代である「飛鳥時代」に「土師中知(はじのなかとも)」が自宅に聖観音菩薩を祀ったのがはじまりです。

浅草寺に伝わる浅草縁起によれば、628年(推古天皇36年/飛鳥時代)3月18日のこと、宮戸川(現在の隅田川)にて網漁を営んでいた「檜前浜成と檜前竹成(ひのくまのはまなり・たけなり)」が、異変に気付き網を引き上げたところ、聖観音菩薩がからまっていたそうな。

そこで檜前兄弟は、自分たちの主人である土師中知のもとへ菩薩像を持ち込むのです。一方の土師中知も霊夢に菩薩像が現出し、託宣により、受戒し(僧侶になる)、自宅を寺へと改築す。

ちなみに檜前浜成、竹成兄弟と土師中知の3名は現人神(あらひとがみ)として、浅草神社にて奉斎されるに至りまする。

以来、この縁起を聞きつけた人々は聖観音を拝むために中知の自宅に参集して参拝するのですが、645年(大化元年)に運命的な出会いが訪れます。

僧侶の勝海(しょうかい)が土師中知の自宅へ訪れた際、たくさんの参拝者を受け入れられるようにと、規模を拡張して本格的に寺院として改築し、境内を整備します。

しかしその後、不運にもたびたび火災や落雷による炎上を繰り返し、1041年(長久2年)の地震においては倒壊に至っています。

江戸時代にいたっても数度、火災に見舞われますが、ときの将軍(幕府)の特別な取り計らいにより都度、再建されます。

しかし、昭和時代に勃発した太平洋戦争の東京大空襲によって完膚無きまでに灰燼。

現在見ることのできる本堂の姿は1958年(昭和33年)の再建時の堂舎を基本とし、2010年(平成22年)にチタン瓦に葺き替えられたのちの姿です。

浅草寺・観音堂(本堂)の歴史(年表)と変遷

飛鳥時代

628年(推古天皇36年)

土師中知が自宅をお堂として、ご本尊「聖観音菩薩」を奉安する。すなわち土師中知が自宅が浅草寺の興り(起源)である。

645年(大化元年)

旅僧・勝海上人の霊夢に観音が現出し、その託宣により土師中知の自宅(浅草寺)を訪問して菩薩に拝する。このとき勝海上人の夢枕に聖観音菩薩が立ち、「自らを秘仏として隠すように」という夢告を得る。

託宣の通り、秘仏と定めるや否や、厨子(ずし/入れ物)を用意してその中へ菩薩像を安置。以来、現在に至るまで菩薩像は秘仏とされる。

一説では、高さ1寸8分(約5.5センチ)ほど小さな金色の像とも伝わる。

なお、勝海上人は後世にて浅草寺の「開基」と尊崇が寄せられる存在になる。

平安時代

857年(斉衡4年/天安元年)

慈覚大師(円仁)が聖観音菩薩像を手彫りす。円仁はこの当時、中国唐から帰国し、主に関東・東北地方を中心に巡礼に出ており、その一環でこの浅草へも来訪したとみられている。

円仁は生涯を終えるまでに関東・東北を中心とした500余寺の創建や再建に関わっている。

この像は現在、浅草寺本堂にて絶対秘仏の観音像の前に奉安される、お前立ち本尊とされれる。

これを機に円仁は、後世にて中興開山の祖とも呼ばれるようになっている。

1041年(長久2年)

1041年(長久2年)、地震により倒壊する。

江戸時代

1631年(寛永8年)

火事により観音堂(本堂)焼失。

1635年(寛永12年)

観音堂が再建される。

1642年(寛永19年)

観音堂周辺の民家から火事が発生する。この火事の類焼により、観音堂、再び炎上する。

前回の火事からわずか7年後ということもあって、この当時、境内にあった東照宮(浅草東照宮)も再建に至らず、江戸城へ移築されることになる。

1649年(慶安2年)

三代目将軍「徳川家光」公の御発意により、仁王門、五重塔とともに観音堂(本堂)が再建が開始される。

コラム

江戸時代の浅草寺は徳川家康公が江戸入りして以降は将軍家の祈願寺として、隆盛華々しかったが、秀忠さんの霊廟が増上寺に築かれると、その菩提を弔う役目を担った芝の増上寺が最上格となった。
しかし3代目家光公は遺言で自らの供養は上野の寛永寺が執り行うようにと告げ、この遺言により、寛永寺の寺格は跳ね上がりを見せ、増上寺と肩を並べるほどになった。
その後の浅草寺は衰微して至ったのは言うまでもない。

1685年(貞享2年)8月6日

浅草寺の別当職だった「忠運」は、日光の輪王寺宮門主との間に諍いを起こし、その結果、仲裁に入った幕府よりの幕命により、別当職を剥奪され、下総国の法慚寺(ほうぜんじ/上野寛永寺の末寺)の住職となった。

以後の浅草寺別当は寛永寺の輪王寺宮が就いた。これにより事実上、浅草寺は寛永寺に従属することとなった。

なお、下総の法慚寺は廃仏毀釈で廃絶。現在は「葛飾八幡宮」として現存している。

大正時代

1923年(大正12年)

関東大震災が発生するも観音堂および五重塔は無事。

明治時代

1907年(明治40年)

1907年(明治40年)、観音堂が国宝指定を受ける。

昭和時代

1933年(昭和8年)

1933年(昭和8年)、先の関東大震災にも耐えた本堂であったが、随所に破損や老朽化が発見されたため、急遽、大修理が執り行われる。

この大修理以降、現在に至るまで本堂へ絵馬の奉納が廃止されています。

1945年(昭和20年)3月10日

東京大空襲により、本堂(観音堂)炎上、灰燼に帰す。ほか、五重塔など堂宇を焼損す。

ただ、幸いだったのがご本尊・聖観音菩薩像は「天水鉢」の中に安置されており、その上、観音堂の地下3メートルにその天水鉢が埋められていたことから、空襲の被害は全く受けることがなかった。

なお、空襲で焼損する以前の本堂は国宝指定を受けていた。

1951年(昭和26年)

いよいよ観音堂(本堂)の造営が開始される。昭和26年に11月に早々に仮堂の造営が開始されており、ご本尊「聖観音菩薩」が安置されることになる。

なお、この仮堂はのちに「影向堂」として生まれ変わっており、現在に至っては影向堂から→淡島堂へシフトされる形で当時の仮本堂を踏襲している。

このたびの工事では2度と過去の惨劇は繰り返さないのようにとの強い思いが込められ、堂舎の造りは江戸時代再建時(慶安年間)の堂舎を復原する形で最新技術となる鉄筋コンクリート造りが基軸として用いられた。

これにより、耐火性はもとより耐震性も格段に向上した。

1958年(昭和33年)

観音堂(本堂)が完成する。同年落慶式が無事に営まれた。

平成時代

2010年(平成22年)

昭和の再建では観音堂(本堂)の大屋根には本瓦が用いられたが、予期せぬ崩落を完全予防するために屋根の軽量化が検討される。

結果、チタン製の屋根瓦へ葺き替えられることが決定する。

  • チタン瓦総数:71626枚

浅草寺の本堂の建築様式(造り)と特徴

傾斜のある大屋根

本堂の大屋根は、宝蔵門(高さ:21.7m)の屋根よりも高くなっています。

入母屋(いりもや)造り、本瓦葺きの屋根は、急な傾斜がついているのが特徴的です。

時代を経るごとに建造物の棟の高さが増してくるので、必然的に屋根に角度がついてきます。また近世に至って造営された証ともなり得ます。

驚愕!大屋根の屋根瓦の数

現在の大屋根のチタン屋根瓦の総数は71626枚もありますが、かつて瓦葺だった頃と比較すると3分の1の重量に収まっています。

つまり以前の屋根瓦は現在の3倍もの重量があったことになります。

屋根瓦1枚1枚には工事に際しての費用寄進者の名前や造営に携わった関係者の名前が書かれているとのこと。オホ

えっ?!本堂の下に大量の写経が埋められている?!

観音堂(本堂)の地下には大量の写経が埋められています。

  • 一字三礼石写経 5俵分
  • 般若心経 100巻
  • 観音経 160巻
  • 阿弥陀経 20巻




浅草寺・観音堂(本堂)の内部構成

  • 内々陣(内陣の更に奥)
  • 内陣(脇陣)
  • 外陣(もっとも外側)

お堂の中は、参拝客がお賽銭を投げ入れるスペースの「外陣(げじん)」と、御本尊が奉安される「内陣(ないじん)」に分かれてい‥申す。

浅草寺・本堂「外陣」の見どころ

浅草寺・本堂「外陣」

  • 高さ:9.4m
  • 面積:約130畳

外陣とは、私たちが通常、お参りする場所で、コンクリート敷きなので靴のままあがれます。

格子越しに内陣の様子がうかがえ、御本尊がまつられている金色の「宮殿(くうでん)」が見えます。

お参りして、上を見るとそこには「施無畏(せむい)」と書かれた額がかかっています。

これは、江戸時代の能書家である「深見玄岱(ふかみげんたい)」が書いたものです。

「施無畏」とは、「畏(おそれ)れ無きを施(ほどこ)す」と読み解きます。

その意味とは「あなたのおそれや不安を取りのぞいてあげましょう」という意味です。

つまり、観音様が参拝者の方々に安らぎを与えているのです。

そんな安らぎを与えてくれる場所には、ちょっと不釣り合いな「大きな賽銭箱」があります。

それだけ多くの参拝者が、この浅草寺に訪れるということなのでしょう。

本堂の見所【その1】浅草寺・本堂「志ん橋(新橋)」大提灯

浅草寺・本堂「新橋」大提灯(だいちょうちん)

  • 高さ:4.5m
  • 横幅(直径):3.6m
  • 重さ:約600kg
  • 制作会社:高橋提灯
  • 寄進者(発願者):浅草・新橋の崇敬者

浅草寺の本堂にも、雷門に負けじと劣らぬ「クソでかい大提灯」が飾られています。

この提灯は、浅草・新橋に住む、古くからの崇敬者の方々の寄進によって奉納されたものです。

浅草・新橋と言えば、江戸期より「市(市場)」や「料亭」が多い土地として有名です。

この大提灯は、新橋の「料亭を営む方」や「芸者」の方々の組合が奉納されたようで、提灯をよく見ると芸者さんの名前が記載されているようです。

ぜひ、ご覧になってみてください。

3つの天井画

※現在、浅草寺の本堂内部は写真撮影が禁止されております。※

浅草寺・本堂の外陣の上を見上げると天井には描かれており「3つの天井画」があります。

真ん中の絵画の名前「龍之図」

  • 「龍之図」の大きさ
    ・縦の長さ:6.4m
    ・横の長さ:4.9m
  • 「龍之図」の作者
    ・川端龍子(かわばたりゅうし)

中央の龍の絵が近代の画家、川端竜子(かわばたりゅうし)の「龍之図」です。

浅草寺の山号は金龍山ですから、そこから龍の画が描かれたのでしょう。

龍子の龍の絵は、他の寺院でも天井に描かれています。

左右の絵画の名前:「天人之図」

  • 「天人之図」の大きさ
    ・縦の長さ:6.4m
    ・横の長さ:4.9m
  • 「天人之図」の作者
    ・堂本印象(どうもといんしょう)

荒々しい龍の両隣には、微笑ましく半笑いをカマす「天女の絵」が描かれています。

龍子と同時期の日本画家である、堂本印象(どうもといんしょう)の「天人之図」です。

聯(れん)

「聯」とは文字の刻まれた縦長の看板のことです。おおむね対になっているケースがほとんどです。浅草寺の聯も本堂を挟むようにして左右に2枚据えられています。

なお、浅草寺の本堂の聯は外陣に次の4枚飾られています。

堂内向拝部分(入口)正面左右


本堂向かい見て左側の「聯」

書かれている文字

『真身絶表象雲霞画出補陀山』

書いた人物

豊道 春海(ぶんどうしゅんかい)

本堂向かい見て右側の「聯」

書かれている文字

『実相非荘厳金碧装成安楽刹』

書いた人物

豊道 春海(ぶんどうしゅんかい)

堂内賽銭箱の左右


賽銭箱を向かい見て右側の「聯」

『佛身圓満無背相』

書かいた人物

野口雪江

賽銭箱を向かい見て左側の「聯」

十方万來人皆対面

書かいた人物

野口雪江

施無畏(せむい)の額

  • 書:豊道春海原
  • 作:南部白雲工房
  • 奉納年:2020年(令和2年)6月

施無畏の額や文字が飾られている本堂は大抵、ご本尊が観音様です。「観音」は別名で「施無畏者」とも言います。これは「畏れ無きを施す人」という意味合いがあります。

浅草寺本堂の外陣部分、賽銭箱の頭上には豊道春海原が揮毫し、南部白雲工房が制作した「施無畏」と大きく書かれた額が飾られています。

以前の扁額は能書家「深見玄岱(ふかみげんたい)」が揮毫したものでした。

⬆️深見玄岱が揮毫した扁額

浅草寺・観音堂(本堂)「内陣」の見どころ

※現在、浅草寺の本堂内部は写真撮影が禁止されております。※

浅草寺・本堂の内陣には参拝ができない?!

外陣からお参りする人が圧倒的に多いのですが、実は内陣にも入ることができます。

本堂右手側に入り口がありますので、昇殿する場合は靴を脱いであがりましょう。ご祈祷や法要もこの内陣の中で行われています。

浅草寺・本堂「内陣」の広さ

  • 横幅:12.7m
  • 脇陣:横幅9m・奥行14.5m、広さ129.6m2(約40坪)
  • 奥行き:14.5m
  • 畳:約70畳(68.75坪/226.9m2

「内陣・宮殿」

浅草寺・本堂「内陣」には「宮殿」があると言われております。

宮殿??・・と、一瞬、考えてしまいますが、詳細は下記にて。

造営年

  • 1955年(昭和30年)
大きさ

  • 横幅:4.5m
  • 高さ:6m
建築様式(造り)

  • 八棟造り
  • 総金箔押
屋根の造り

  • 三方・軒唐破風付き

本堂・内陣・宮殿の読み方

宮殿とは「きゅうでん」と読んでしまいますが、社寺建築においては「くうでん」と読みます。

殿(くうでん)」とも読まれますが、正しくはありません。

宮殿の役割

宮殿とはクソでかい「厨子(ずし)※豪華な入れ物」のことです。

厨子とは、仏像や大切なお宝を収納しておく、豪勢な造りの箱のことです。

奈良時代以前の時代では「厨子」という言葉が日本に伝来しておらず、「宮殿」と呼称されていました。

つまり、浅草寺の歴史を証明する材料の1つと言うことになります。

浅草寺・本堂の宮殿は内陣の中央に置かれています。宮殿としては日本一の大きさを誇ります。

そして宮殿の中にこそ、絶対秘仏である御本尊の「聖観世音菩薩像」が納められているのです。

宮殿の造り「八棟造り」

1966年(昭和30年)に造られた宮殿は、「八棟(やつむね)造り」で、屋根の三方に軒唐破風(のきからはふ)という装飾が施されています。

「八棟造り」とは、豪勢な造りの唐破風の屋根をいくも従え、最後に超・豪勢な大屋根をそれらの屋根の上に覆い被せる・・と言った造りのことです。

いずれにしても鎌倉時代末期の建築様式を踏襲しています。

また、壁は全部で260㎏の漆を使用して造られており、金箔が押されています。

宮殿の中は上段と下段の2間の畳敷きになっています。

他にも、秘仏の代わりに信者が拝むことができる、以下のような観音像が宮殿には安置されています。

  • 上段(奥)に「永代秘仏(えいたいひぶつ)」のご本尊
  • 下段(手前)に「お前立(おまえだち)」の仏像(※一説には円仁(慈覚大師)の手彫りとも)

さらにこの手前には「お戸帳(おとちょう)」と呼ばれる龍や梵字が描かれた幕が10枚あります。ご開帳の時にはこの幕が外されて御前立ちのご本尊に拝することができるというわけです。

ただ、下段のお前立の仏様でさえ、33年に1度、あるいは何かの記念日にしか拝むことはできません。

浅草・浅草寺・本堂の開帳時間

  • 午前6時~17時まで

この他、宮殿の中にはご本尊の脇侍として左右に梵天像と帝釈天像が奉安されています。

さらにこの宮殿を挟み込むようにして向かい見て右側に「不動明王」左側に「愛染明王」が奉安されています。

終わりに・・

浅草寺のもう1つ秘仏?!「裏観音」について

実は本堂の「内陣・宮殿」の裏側には、もう1尊、観音様が安置されています。

しかも、その観音様と言うのが、なんと!「聖観世音菩薩立像」と言えば驚きますでしょうか?

詳しくは、宮殿の裏側に回ると「後堂」と呼ばれるお堂に「聖観世音菩薩立像」が安置されており、1年に1回待たずに拝見できるのです。

しかし、少しガッカリなお話をとはなりますが、この観音様は通称・「裏観音(聖観世音菩薩立像)」と呼ばれる観音様で、ご本尊とはまったく別の観音様となります。

浅草寺に訪れた際は、ぜひ、裏側へも回ってお祈りしてください。ウフ

煙をゴウゴウと立てている本堂の「香炉」

外陣正面には煙をゴウゴウと立てているクソでかい香炉(こうろ)が置かれています。この香炉、浅草近辺ではちょっと名の知れた香炉だったりします。

浅草寺・本堂「香炉」については下記ページにてご紹介しています。

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