「元版一切経」とは?
元版一切経は「げんばんいっさいきょう」と読みます。
早い話が紙束状の分厚い経典です。
浅草寺の宝蔵門には5458巻もの元版一切経が収蔵されてい‥‥‥申す。
この経典は源頼朝卿が夫人である豊胸政子‥‥おっと、北条政子!! ふぅ ‥‥が息子である頼家の追善回向のために鶴岡八幡宮に奉納したものです。
したがって、元来、鶴岡八幡宮(鎌倉)が所有するものでした。その証拠に各巻には鶴岡八幡宮の朱印が押印されてい‥‥‥申す。あひょ
浅草寺へ収蔵されることになった理由や経緯とは?
明治初頭になると明治新政府により「神仏分離令」が発令されますが、これにより、神社境内でありながら、仏教色の強いものは排除される動きが生じます。
鎌倉時代に創建された鶴岡八幡宮は「神宮寺」はもとより、「八幡宮寺」とも言われるように、神社とお寺が混交したような神社でした。
その混交の象徴の1つに元版一切経の存在があったのです。
なにせこの経典は5000巻を超えるほどのボリュームがあることから、新政府の目を逸らすのは不可。
そこで貞運尼(ていうんに)という尼僧が5000巻もの経典を収蔵できる東京の大寺院である浅草寺へ奉納する案を思いつきます。
つまり、浅草寺境内であれば5000巻もの経典を隠して収納しておくには最適てきてきビフテキかむぅ〜ん♡なほどに最適だと考えついたということ。
貞運尼は、すぐさま托鉢(たくはつ)に出て、人々から浄財を何とかかき集め、それを元手にして八幡宮から一旦、自らが5000巻もの元版一切経を買収するのです。
そして、その経典を1871年(明治四年)に浅草寺へ奉納することに成功します。
5458巻もの経典をどうやって鎌倉から浅草まで運んだのか?
現在でも5458巻もの経典を運ぶには簡単にたちゆく話ではなく、輸送するには大型車両の手配が必要になります。
ではいったい貞運尼はどうやって鎌倉から浅草へ5458巻もの経典を運んだのか?
貞運尼はまず、180もの木箱を用意し、その中に一切経をなんとか全巻ブチ込みます。
そして品川まで船で輸送し、品川からは大八車(だいはちぐるま/車輪付きの荷車のこと)に積み替えて、浅草寺へ運び入れることに成功してい‥‥‥申す。グハっ
この時に大活躍したのが当時、浅草一帯を取り仕切っていた大親分「新門辰五郎(しんもんたつごろう)」でした。
新門辰五郎の概要
- 所属:町火消10番組の組頭
- 主人:上野寛永寺の住職(浅草寺住職を兼務)輪王寺法親王
なお、新門辰五郎の尽力により、浅草寺経蔵は再興されてい‥‥‥申す。
浅草寺経蔵の場所
浅草寺経蔵は現在は境内にはありんせん。往時は仁王門(宝蔵門)と本堂の間に建っていたとされています。
現在の浅草寺境内にある「浅草警察署 観音前警備派出所」あたり。
⬆️揚州周英・作の「浅草観音 金龍山真景」に描かれた経蔵。内部には通例の経蔵で見られるような回転する書棚(輪蔵/りんぞう)が設置されていた。
新門辰五郎については下記ページを参照。
一切経は太平洋戦争で焼失した?
貞運尼が命がけで運んだ5458巻もの元版一切経は、当初、浅草寺境内に経蔵に安置されていたのですが、太平洋戦争の東京大空襲(1944年(昭和19年)11月24日から1945年(昭和20年)8月15日まで)により、経蔵は焼け落ちています。
しかし一切経は皆々の必死の協力もあって疎開(そかい/敵襲・火災などによる損害を少なくするため、集中している人や物を分散すること。)したため、難を逃れていまする。
つまり、現在の浅草寺(宝蔵門)には、5458巻の元版一切経が、すべて完存してい‥‥‥申する。….”申する”?
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