浅草神社・三社祭の正式名・別名
三社祭の正式名称は「浅草神社・例大祭」といいます。江戸時代の浅草神社は「三社権現社」と呼ばれていたことから現在に至っては単に「三社祭」と略称で親しまれています。
また別名で「助祭(すけまつり)」とも呼ばれます。
浅草の町をあげてのお祭りになりますが、浅草神社の行事の1つです。三社祭のルーツは、浅草寺・浅草神社の創建までさかのぼります。
以下では、浅草神社の三社祭の歴史(起源)や、刺青と三社祭の意外な関係性など、三社祭の歴史を主体に述べています。
三社祭の「三社」とは?
浅草神社は、浅草寺に建てられた「三社権現社」というお社が始まりでした。「三社祭」という通称は、これにちなんでいます。
普通、神社は神様を祀るお社ですが、この「三社権現社」は、浅草寺の創建に関係した、土師真中知(はじのまつち)、檜前浜成(ひのくまのはまなり)、檜前竹成(ひのくまのたけなり)の3人を祀りました。
これについては、以下のような伝承が伝わっています。
檜前浜成と竹成は漁師の兄弟で、628年、現在の隅田川にあたる川で漁をしていたところ、後に浅草寺の本尊となる、「聖観世音菩薩像」をすくい上げました。
ただ、仏教については何も知らない2人は、「不思議な像が網にかかった」くらいに思っていたのです。
この話を聞いて、像が「聖観世音菩薩像」であることに気づいたのが、地方長官(文化人とも)であった土師真中知でした。
中知はあつい信仰心の持ち主で、まもなく自宅を寺にして、聖観世音菩薩像を祀り、自らも出家しました。
中知亡きあと、その息子が「檜前浜成、竹成、土師真中知の3人を神としてお祀りするように」という霊夢(れいむ/お告げを受ける夢)を見ます。
そこで中知の息子によって「三社権現社」が建てられ、3人は、土師真中知命(はじのまつちのみこと)、檜前浜成命(ひのくまのはまなりのみこと)、檜前竹成命(ひのくまのたけなりのみこと)という神として、祀られることになりました。
「三社権現社」はその後、1868年に「三社明神社」、1874年には「浅草神社」へと名称を変更して、現在に至ります。
浅草・三社祭の歴史・起源
三社祭が最初に開始されたのはなんと!鎌倉時代!
三社祭は、1312年(正和元年/鎌倉時代末期)に始められたと伝えられていますが、当初は浅草寺の管轄にあり、「舟渡御」と呼ばれる祭礼でした。
この理由は浅草寺の御本尊「聖観音菩薩」が隅田川から現出したと縁起にちなみ、神社から担ぎ出した神輿を隅田川に浮かべたの船に乗せる祭礼だったようで、単に「船祭」と呼ばれていました。
船祭は、江戸時代までは浅草寺と一体になったお祭りとして、上述したように「観音祭」「浅草祭」とも呼ばれていたということです。
また、かつての観音祭や浅草祭は現在のように5月中頃の金土日ではなく、浅草寺の御本尊の縁日にちなんだ「3月17日」「3月18日」「6月15日」に執り行われていました。
その上さらに、地域の氏子が参加する舞台としては、今では100基もの神輿が名物ですが、当初は浅草寺外陣へ3基の宮神輿を安置するための「堂上げ」が斎行されていたようです。
また、浅草の各町からは「山車」が繰り出され、山車の豪華さを各町で競い合ったそうです。
江戸時代の三社祭は毎年、三社祭は行われていなかった?
江戸時代の三社祭は、丑、卯、巳、未、酉、亥の年に執り行うことが定められていました。これらの年になると次のようなルートで祭礼が行われたようです。
当時の舟祭のルート
浅草神社境内→仲見世→並木町→江戸通り→浅草見附の乗船場所(舟に搭載)→隅田川を航行→駒形岸あるいは花川戸岸(東参道先)→浅草神社境内
江戸時代に「助祭」と呼ばれた理由
当時の三社祭は絢爛豪華な山車の繰り出しをメインとして、氏子地域外からも多数の観覧客が押し寄せたそうです。
例えば江戸時代の徳川綱吉の治政、隅田川での漁が禁じられたことから、該当地域で漁を営んでいた漁師たちは現在の品川区大森駅周辺へ移り住んだそうです。
そういった数多くの漁師たちも生まれ育った場所の神仏への崇敬心を忘れず、三社祭にかけつけて参加したことから”助け合いの祭り”として「助祭」とも呼ばれることになります。
「観音祭」や「浅草祭」と呼ばれた理由
明治時代以前の日本は神仏習合の国家でしたので、神社を寺院が総括管理した時代でした。
すなわち、神社である浅草神社は真隣りの浅草寺の管理下に置かれ、祭礼の名前も浅草寺本堂の正式名称である「観音堂」が由来となって「観音祭」や、単に「浅草祭」と呼ばれていました。
江戸時代に何度も中断された三社祭
三社祭は鎌倉時代に開始されて以降、様々な事由から中断されることもありましたが、それでもなんとか江戸時代末期まで祭礼が踏襲されてきたようです。
1890年(安政年間末期)に宮本三町の氏子たちが乱暴を働き、その結果、神輿を担ぐことが禁止されてしまいます。
明治時代以降の三社祭の歴史
明治時代に入ると、船祭は一旦途絶えますが、明治5年には新暦の導入に伴い、再び祭礼が執り行われるようになります。
開催日程は5月17日と18日に定められてることになり、さらに現在のような各町への神輿巡幸が中心となる祭礼に改められています。
しかし明治時代以降は完全に廃絶してしまい、以降、昭和初期に1回だけ執り行われたのみでした。
現在では無理なく続けられるよう、「5月17日と18日に近い金曜日から日曜日」となっています。
2012年(平成24年)には、上述、三社祭の起源ともなる「舟祭」が再現され、古式に基づき3月17日、18日に執り行われています。
以降、例年3月17日には「堂上げ・堂下げ」、18日は「舟渡御」がが斎行されています。
浅草神社の本社神輿の歴史
祭りの際に神輿を担いで歩き回るのは、神社のご祭神のご神体やお御霊を神輿に乗せ、地域を見ていただくためです。
従って、浅草神社には、土師真中知命のための「一之宮」、檜前浜成命の「二之宮」、檜前竹成命の「三之宮」という「3基の神輿」があるのです。
戦前の神輿は、江戸幕府の三代将軍家光により寄進されたもので、300年もの間、担ぎ続けられました。
昭和に入り、これらの神輿が文化財に指定されると、新しい神輿が造られました。
しかし、新旧すべての神輿が戦争で焼けてしまい、現在の3基は戦後に奉納されたものです。
三社祭で毎年喧嘩がある理由は刺青と関係が?!
三社祭に行くと「刺青」をした人を多く見かけます。
もちろん全員ではありませんが、刺青をした人の中に暴力団関係者が多いのも事実です。
この理由は「三社祭に神輿を出す同好会」のうち7割ほどが暴力団(やくざ)関係者が代表を務める団体だと言われています。
過去には東京都の迷惑防止条例違反で捕まった暴力団員もいました。
他にも暴力団(やくざ)関係者の出入りが禁止されているのにも関わらず、神輿に乗ったり、喧嘩をしたりということが絶えませんでした。
三社祭が「やくざ祭り」「喧嘩祭り」とも呼ばれる所以です。
2015年から刺青の露出は禁止されている
やがて地域の人からの不安の声も大きくなり、ついに2015年から刺青を露出して神輿を担いではいけないことになりました。
所属する組の紋が入った半纏(はっぴ)を着ることを控えるよう、通知もされています。
刺青や特徴的な紋が見えると、見る人が見ればどこの組に所属する人物なのかが分かるので、喧嘩に発展しやすいとの見解に基づくものでしょう。
刺青は江戸文化の華!江戸っ子の粋の証!
一方で刺青は江戸文化を象徴するものとして江戸っ子魂を示すような「粋」を表現したものでもありました。
ですから、今でも特に職人気質の職人さんの中には刺青を入れている人もいますし、ファッションとしての刺青も広まりつつあるので、刺青自体が悪いわけではありません。
また、たとえ暴力団員でも、何もないのに一般の人に危害を加えたりはしません。
初めて見るとビックリしてしまうかもしれませんが、喧嘩や口論を見た時にそこに近づかないようにしていれば、心配はいりません。
しかし実際問題、気性が荒い人も多いのですが、この荒々しい雰囲気も三社祭の魅力の1つでもあります。
ぜひ、その雰囲気も大いに味わって三社祭を心ゆくまで堪能してください!
関連記事一覧
関連記事:【浅草神社 三社祭】日程(開催期間or開催場所)【何日に行くのがオススメ?】
関連記事:浅草神社・三社祭の「屋台の種類と場所(営業時間)」
スポンサードリンク -Sponsored Link-
当サイトの内容には一部、専門性のある掲載がありますが、これらは信頼できる情報源を複数参照して掲載しているつもりです。 また、閲覧者様に予告なく内容を変更することがありますのでご了承下さい。