亀戸天神の藤の歴史(いつ頃誰が植えた?)と管理方法(藤の1年)を‥‥‥知るつもり❓

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亀戸天神の藤は誰が植えた❓

亀戸天神の藤は江戸時代に初代宮司が植栽したのが起源と伝わる。

以来、庶民の間で熱狂的な人気が寄せられると、さらに藤が植栽されるようになり、現在の規模に発展したと云われる。

江戸幕府の歴代将軍や昭憲皇太后も訪れた❗️

一般的に天神と聞けば梅の花を思い浮かべるが、事実、現今に至るまでこの亀戸も梅の名所として聞こえたが、藤の美事さは如何ともその梅を勝るものだった。

やがて、美しさ余って音となり、春風に運ばれて将軍の耳にまで届くと、5代将軍・徳川綱吉公、8代将軍・徳川吉宗公など歴代将軍も社参した。

中でも4代将軍・家綱公は狩猟の帰りに、たまたま当社へ立ち寄って藤見をしたと伝わるが、その藤の美事さに腰を抜かしたのか、後日、藤見ができるようにと将軍家専用の御茶屋を境内に建てたと伝わる。

明治維新を迎えた後も1876年(明治9年)4月には昭憲皇太后(明治天皇の皇后)御一行が藤見に行幸され、その様子が錦絵にも描かれてい‥‥‥申す。ニシクェっ(”錦絵”を表現)

秀麗皎潔、その見栄えは「亀戸の五尺藤(房が五尺=長くて美事!)」「亀戸の藤浪(太鼓橋から見る藤の眺めの例え/藤浪=風に吹かれて波のように揺れ動く藤の花の意。)」などと称賛され、安藤広重の「名所江戸百景」や歌川国芳の「江戸じまん名物くらべ」など、数々の浮世絵の題材となり、列島の隅々にまでその名が聞こえた。




数々の浮世絵に描かれた亀戸の藤たち

以下、画像「国立国会図書館」より引用

東都名所合「亀井戸」

  • 絵師:豊国
  • 出版者:佐野喜
  • 刊行年:安政元年
豊国国芳東錦絵「亀戸藤乃景」

  • 絵師:香蝶楼豊国
  • 出版者:古賀屋勝五郎
  • 刊行年:江戸時代後期

東都名所「亀井戸池中藤花之盛」(短冊絵)

  • 絵師:広重
  • 出版者:藤彦
  • 刊行年:江戸時代後期(1818年以降)
名所江戸百景「亀戸天神境内」

  • 絵師:広重
  • 出版者:魚栄
  • 刊行年:安政3年
江戸名所「亀井戸天神ふし」

  • 絵師:広重
  • 出版者:泉市
  • 刊行年:江戸時代後期




天下に聞こえた亀戸の松❓と藤

いつ頃なのかは判然としないが、日本では古来、藤を可憐な着物女性、松を力強い気丈夫な男性にたとえ、藤と松とが重なるような位置に双方を植え込む文化が生まれた。

それはこの亀戸社も例外なく、やはり松が境内に植え込まれた。

当初の松は京都の千本松が移植されたが1786年(天明六年)の洪水で枯死。その後継として菅公の末裔と云われる高辻家から松の寄進があり「北野の一夜松」などと呼ばれたが、明治末を迎えるまでにはこの松も枯れた。
(※注釈※「北野の一夜松」=京都の北野天満宮には松が多いが、一説には菅原道真は逝去後、神霊となって一夜にして千本の松が生じさせたと云ぅ伝説がある。)

その後、渋沢栄一らの提唱により近代化が加速すると、この亀戸社周辺にも紡績工場はじめ、化学工場、金属機器製造工場などが軒を連ねた。各工場の工人やその家族が大勢、藤見に訪れるようになると、多くの露店(屋台)が姿を現し、藤棚の拡張も相まって松のことは忘れらた。

江戸時代に初代宮司(神主)が植えた藤は戦災ですべて枯れた⁉️

亀戸天神社の藤は1923年(大正12年)9月1日11時に起こった関東大震災にて罹災し、これをなんとか乗り切ったのだが、昭和20年の太平洋戦争における東京大空襲はトドメの一撃となった。

亀戸社周辺には軍需工場が軒を連ねていたこともあって米軍の攻撃の的にされ、境内入口の石標を残し、焦土と化したのだった。

つまり、亀戸天神社の藤はすべて近世に植栽されたことになるので、創建以来よりの樹齢100年以上の藤は皆無となる。(梅も同様のことが言える。)

風致保存委員会の設立と藤棚の復興

戦後、市民の生活がようやく落ち着きを取り戻した1952年(昭和27年)頃になると、地元市民たちの間に亀戸復興運動が巻き起こり、「風致保存委員会」が発足する。

発足後まず復興されたのが亀戸社の拝殿と奥殿、そしてシンボルたる藤の苗が植栽された。

以後、亀戸社の藤は地元の有志たちの手により植栽され始めると徐々に藤棚が増え始め、昭和30年代になると亀戸の藤はかつての名声を取り戻し、都内随一と謳われ、ふたたび天下に名を響かせた。

その亀戸の藤を見るために例年、大勢の人々が都外からも押し寄せるようになると、やがて料亭や待合茶屋、見番、置屋などが軒を連ねるようになり、最盛期には280余人から成る芸者衆までもが出没するほどの盛況ぶりを呈した。

平成13年・春、突如として藤が開花せず転機を迎える

この頃の亀戸社の藤は都内の枠を飛び越え、全国にその名が知られるようになっていたが、平成13年・春のこと。この当時、亀戸社では意気揚々、菅公御神忌1100年に向けての改修工事が実施されていたその矢先の出来事だった。

その年の藤は花を一向に開花せず、ついに藤の開花時期を過ぎてしまった。

原因不明の突然の事態に困り果てた亀戸社や地元商店街の人々は、植物のお医者様として名の知られた日本樹木保護協会の山本氏の話を聞きつけ、さっそく藤の調査が実施される運びとなった。

そして、調査の結果、想像もしないことが明らかになった‥‥

なんとぉぅ❗️土壌の下から大・小の石コロころころドコいった‥‥が数多く見つかり、土壌が原因だということが判明した。

その後、颯爽と土壌改良のため、石コロころころ‥‥もぅエエわぃ!‥‥や、コンクリートのガラ(ガレキ)の撤去、さらに、耕転、肥料入れ、バークチップを敷き、土留、剪定、ツルの誘引など、雨の日も積雪の日も手を休めることなく遂行された。

その苦労が実ったのか、翌年4月中旬は春、ふたたび亀戸の藤が旧来の姿を取り戻し、満開の姿で人々の心と涙袋を温めた。

この土壌入れ替えにより、亀戸の藤は色艶、花序の長さ、香り(匂い)など、以前よりも良くなったと好評判を得るに至った。




亀戸天神の藤や梅を管理されている人は誰❓

亀戸天神では神職・巫女および、職員の方たちが総力で以って梅や藤を育生しているのではなく、現在は植木職人さんに管理を委ねているとのこと。

やはり大規模かつ、古今東西、全国的に有名な藤や梅の名所とだけあって、その管理には専門知識が欠かせないと云ったところか。

そのような厳重な管理体制が敷かれているからこそ、毎年人々の顔がホッコリこりこり肩コリ治らん‥てなほどに、ホコろぶような梅や藤が今日にまで在り続けるのだろぅ。どゆ意味や (そろそろこのクダリもねぇ..)

亀戸社における藤の管理(年間スケジュール)

以下は亀戸社における藤の管理における大まかな1年の様子をわかり易く表にしてみた。(2008年の情報なので現行もこのスケジュールなのは不明。あくまでも参考程度に💜

表にするとその気苦労がよく伝わってきて、本当に涙袋が熱くなってくる。…熱チっ!

藤の生態機能の状態実施する主な作業内容
1月休眠期冬季の剪定、コブ病処置、石灰硫黄合剤散布、棚の修理(亀戸社では美観を意識し60㎝角のマス目に整えている)
2月根の活動開始穂木の採取
3月開花準備接木(つぎき)
4月中頃から咲き始める虫も活動開始し始めるので害虫対策を強化(アブラムシ、フジコナカイガラムシなど)
5月花の盛り花ガラ摘み、お礼肥
6月栄養成長期、つる旺盛、花芽分化開始放任期。邪魔なツルのみを除去す。挿し木、接木、取り木(〜8月にかけて)
7月狂い咲き、ツル伸長夏季の剪定、莢(さや)の除去
8月ツル伸長あばれヅルの剪定、女装‥ではなく除草!..ふぅ、コブ病処置、褐斑病(かっぱんびょう)を警戒
9月ツル伸長虫も活動開始し始めるので害虫対策を強化(イラガなど)
10月ツル伸長あばれヅルの剪定、タネの採取、貯蔵
11月黄葉になる藤も例外なく、昼間と夜間の気温の温度差が生じると紅葉する。「藤の紅葉」と云ったところか。オホっ
12月お婆ちゃん状態(訳:落葉する)、休眠期に入る亀戸社では12月10日頃に落葉が目立ち始めポトポトと土壌に落とす。本来、それが肥やし(肥料)になるのだが、病菌や害虫の温床となる可能性があるため、亀戸社では適度に掃き集めて処分しているとのこと。

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